横山の参戦
「はい、バーYです。」
『横山マスター! 百瀬です!』
百瀬は、ウチからチーフのところにヘルプに出している見習いバーテンダーだ。
営業中に珍しい、しかも電話口の声は酷く焦っているように聞こえた。
『チーフが! チーフが、倒れました!』
「……!! すぐに行く! それまで、お前は店をなんとかしておけ!」
あれほど頼れ、と言っていたのに、あの――頑固者が!
事情は知っていた。アイツは、よく頑張っている。
チーフは弟弟子の、その弟子に当たる。
弟弟子とはいえ、私などよりも余程筋が良く、あっという間に追い越された。
嫉妬と同時に、抱いた憧憬は今も胸の奥に熾火のように残っている。
だが、それでも、弟弟子は弟弟子だ。
なら、その弟子を助けるのは、兄弟子である私の役目だ。
「木下、坂上。今すぐに荷物をまとめろ。お前たちの弟を助けに行くぞ。詳しくは車の中で話す。山村、今日はお前に任せる。できるな?」
「「「はい!」」」
バーテンダーの師弟関係は強い。
ろくな説明もないままでも、皆が私の無茶な指示に即座に従う。
木下と坂上は、状況は呑み込めていないのだろうが「身内の一大事だ」という空気を読み取り、硬い表情を見せたまま慌ただしくバックヤードへ向かう。
上着を羽織り、店の裏手の駐車場から車を回して店の前に付ける。
空気が冷たい。
一つ星が瞬くのが見える。
たった一人、店を守るために無理を続けてきたチーフを思う。
アイツは、百瀬を送った後も、お礼のためにと何度も来てくれた。
その度に説教はしていたが、抱え込むクセがある。
あと一人二人くらい、出せる余裕はあった。
それとなく、何度か話を振ったこともある。
だが、これ以上迷惑はかけられないから、とその度に断られていた。
クソッタレ、無理矢理にでも押し付けてやるんだったわ!
自分の読みの浅さに腹が立つ。
ドアベルが鳴り、木下と坂上が車に乗り込む。
山村なら大丈夫なはずだ。
昨年のコンペでも初出場ながら入賞して、今は乗っている時だ。
天狗になりかけた鼻っ柱も、チーフがへし折ってくれた。もう驕ることもなく、謙虚に精進を重ねている。
「行くぞ。」
アクセルを踏み込む。
チーフを、あんな風にしたのは、誰の責任だ。
もちろん、体調管理を疎かにしたチーフ本人の責任が一番重い。
だが、彼を一人にさせた弟弟子、そして、彼の無理に気づけなかった私にも、責任の一端がある。
彼の苦しみを思うと、喉の奥がグゥッと熱くなって、フロントガラスがにじみそうになった。
ギギッ、と蝶番の音を軋ませて重いドアを開ける。
瞬間、ざわめきが止まり、いくつもの視線が集中する。
「横山マスター! すみません、ありがとうございます! 木下さんも坂上さんも……助かります!」
おい、あれって……横山って、Yの……。
一方向に向いたささやきが広がっていく。
だが、それは今は後回しだ。
店内は思ったよりも落ち着いていた。
六、七割方のカウンターが埋まるフロア。
百瀬を貸し出して、半年ほど――ヘルプとして固定になったのは、三ヶ月をやっと数えた程度だ。
短時間とはいえ、このフロアを一人で回せるはずは……。
私の元に駆け付けるかと思った百瀬は、しかし。一人の男性客に声をかける。
「次は何にいたしましょうか。」
「あ〜、ちょっと酔ってきたし、ロングがいいなぁ……モスコ、にしようかな。」
「かしこまりました。」
流れるような動作で、銅製のマグカップを取り出し、氷を組む。
パーフェクト・ウォッカを注ぎ、カナダドライのジンジャーエールをアップ。
ライムを搾って、ステア、二回。
空いていたグラスと引き換えに、モスコミュールのカップを置く。
「モスコミュールです。少しウオッカを抑えて、飲みやすくしてみました。ごゆっくりお楽しみくださいませ。」
完璧だった。
オーダーから二分もかかっていない。これ……本当にあの百瀬か?
いや、いかん。私たちは見物に来たんじゃない。
後ろを見れば、連れて来た二人も、百瀬の動きに唖然としている。
「木下! 坂上! さっさと準備しろ! わかってんだろうな、先輩のお前らが百瀬に負けてらんないぞ! さあ、行けッ!」
私はコートを脱げばそれだけで今すぐにでもカウンターに立てる。
二人が上着を脱ぎながらバックヤードに駆け込むのを横目に、クロークにコートを掛け、洗い物をする百瀬の横に立つ。
「見違えたな、百瀬! 驚いたぞ!」
「横山マスター……すみません、Yも忙しいのに。ありがとうございます! いや、あのチーフ、がずっとマンツーマンで、指導してくれてるんですから、」
そこからは、言葉が続かない。
チーフ、と名前を出したことで、彼が倒れた時のことを思い出したのだろう。
木下と坂上が準備を終えて辺りを見回しながら戻ってくる。
「改めていつも一人でこの店を回してたって考えると……。」
「……バケモンっすね……。」
言葉にはしないが、同感だ。
しかも、チーフは自分の技術を磨くだけでなく、「王のギムレット」の精神を百瀬に植え付けていた。
それは、単なる技術指導の枠には収まらない。正に、魂そのものの継承。
「百瀬、店のことを二人に教えてやれ。二人も、Yでは先輩でも、ここでは後輩だからな! しっかり教えてもらえよ!」
「「「はいっ!」」」
「それと……百瀬、とりあえず落ち着いたらでいいから、詳しいことを聞かせてくれるか?」
「いや……それは、私から話そう。」
声の方を振り向けば――根津さんだった。
今日はこっちにいらしてたのか。
ウチに来た時も、チーフの話題には事欠かなかった。
その度に、我が事のように嬉しそうに語る根津さんを、忸怩たる思いで眺めていたという過去の自分が、チクリと胸を刺す。
根津さんの表情は、暗く憔悴している。
目に、いつもの光がない。
百瀬に許可をもらい、二人でバックヤードに向かう。
流石に、フロアで不安を煽るような会話はできまいて。
そこで根津さんから聞いた話は、耳を疑うような事実だった。




