職権濫用
今日は岸本くんが久々にチーフの酒が飲みたい、と言ってきた。
岸本くんは、あの日のスーズ・ギムレット以来のチーフのファンだ――もちろん、私も。
後から彼が、まだ大学生で、あの時はバーテンダーを始めて間もない十八歳だったと聞いて驚いたものだった。
このまま成長していったら、どんなバーテンダーになるのだろう、と楽しみにしていたら、あっという間にチーフに任命された。
彼個人のファンもかなり増えたらしい。
最近では、ギムレットの王と呼ばれるようになったと聞く。
確かに、彼の振るギムレットは一級品だ。
思い出すだけで気が逸り、その日のカルテの整理もやっと終わって病院を出た。
やっとチーフの酒が飲める、そう思ってドアを開けたのだが――明らかにチーフは……普通の状態ではなかった。
見たこともないような酷い顔色で、視点も定まらない。
最近入ったらしい若いバーテンダーに促され、何度か見たことのある常連らしき男性客が声を荒げて、ようやく休むことにしたようだった。
壁に手をつきながら、フラフラとバックヤードに向かうチーフの背中を見送り、今日は諦めて帰るか、と思った瞬間だった。
ドン、とバックヤードから何かが倒れた音がする。
一拍遅れて、何かを倒したような金属音。
百瀬くんと言ったか、もう一人のバーテンダーが慌ててバックヤードへ飛び込むのが見える。
「チーフ! チーフ!」
「……**……」
「チーフ!!」
チーフが、倒れたのだとようやく理解する。
理解が行き届くと同時に、客の市川、ではなく医師の市川、として駆け出す。
「チーフ! どうした!」
そこで目にしたのは――散乱する金属製のボウルの中に、力なく倒れ込む、チーフの姿。
「市川さん! チーフが!!」
百瀬くんが慌てて半ばパニックを起こしている。
「わかっている! 岸本くん! 救急車を!」
「はい!」
バックヤードは電波が弱い。岸本くんが携帯電話を耳に押し当てながら、店の外に駆けていくのが見える。
百瀬くんと場所を代わる。
少しでもチーフを楽な姿勢にしてやろうと、蝶ネクタイを外す。
フロアのダウンライトの薄暗い下ではなく、バックヤードの明るい照明に照らされるチーフの顔を、初めて見た気がする。
こんなにやつれていたのか…!
酷い顔色だ……。シャツのボタンを外して、呼吸を楽にし……ようとして、手が止まる。
胸元には、ネックレスに通された指輪。決して高そうなものではない。
それよりも私の目を引いたのは――
浮き出た肋骨。 身体中に広がる夥しい湿疹。
掻きむしったのだろう、血が滲んでいる箇所もあった。
ただの風邪ではないことは明白だった。
額に掌を当てる。……異常な高温だ。
呼吸も浅く、喘鳴音も認められる――まずい、気道に炎症を起こしている。
脈を見ようとチーフの手を取った時に、愕然とする。
ボロボロだった。
指の先はひび割れ、爪も縦に濃い筋が浮き上がり白斑が出ている。
浮き出た肋骨。 湿疹。 爪の異常。
――まさか。
あり得ない、あってはならない。嫌な予感が脳裏を渦巻く。
「あり、得ない……。」
「どうしたんですか! 市川先生!」
「根津さん……。」
根津さんは実業家としても有名なだけでなく、ウチの病院にも多額の寄付をしてくださっている、篤志家の顔も持っていた。私も何度かご挨拶をしたことがあった。
いつも落ち着いた根津さんが、見たこともない程に狼狽えた様子でチーフを見、息を呑む。
ここで言うべきではないかも知れない。
だが、泣きそうな程に心配している彼を見て、隠す訳にもいかない。
「ここで正確な診断ができるわけではないのですが――チーフは、極度の栄養失調に陥っている可能性が高い。それに加えて、高熱と湿疹……。感染症を併発しているかも知れない。」
「栄養、失調? でも、チーフは、ちゃんと……。」
「百瀬くんと言ったな。とにかく、救急車が来た時に、チーフを運び出すルートを確保したい。お客様の誘導を頼めるか?」
「はい、もちろん、です……。」
何かを思い出したように言い淀む。
なんだ?
今優先するべきなのは、チーフ以上にあるはずがないだろう!
「ただ……チーフが……。」
「チーフが、なんだ!」
苛立ちが声に出る。
チーフの容態は一刻を争うかも知れないというのに……!
「店を……守って、くれ、と……。」
自分の顔が驚愕に歪むのがわかる。
チーフは学生と聞いている。
ただのバイトじゃないのか?
何故そこまで、店に固執する?
今日だって、明らかにこの体調なら出勤するべきではないはずだ。
何を守ろうとしてるんだ?
「そんなことは責任者に任せればいいだろう! マスターには連絡は付かないのか!」
「マスターは……一度も見ていません。」
言われて、初めて気付いた。
そうだ。
チーフが見事に店を切り盛りしていたから気付かずにいただけだ。
もう、二年はマスターを見ていない気がする。
異常だ。
見ていないと言えば、チーフがここまでになる前に、私なら気付けたはずだ。
私は……彼の、何を見ていた?
「市川先生! 救急車来ます! ただ、受け入れ先が!」
岸本くんが駆け込んでくる。
「ウチの救命救急はどうした!」
「先程高速で多重事故があり、受け入れ困難と!」
クソっ、こんな時に!
「とにかく百瀬くんはお客様を誘導し、担架の通り道を確保しろ! 岸本、お前は救急車を! 受け入れ先は、オレが確保する!」
指示を飛ばしながら、足早に店のドアを開ける。
そのままリダイアルに残っていた職場に電話をかける。
患者一人一人に思い入れすぎちゃダメだといつも言っているのに、これまで一度も使ったことのない権力を行使するのにも迷いはなかった。
今は理屈ではない。
この「ギムレットの王」を――この若者を、必ず助けなければならない。
「小児の市川だ! 急患の要請だ、今すぐ受け入れの準備をさせてくれ!
病床がない? 構わん、小児科長の権限でVIPルームを開けろ!
それと、内科の村上先生はまだ院内に残っているはずだな? 声を掛けてくれ!
ああ、オレの頼みだと言えばいい!
ASAP! 今すぐだ!」




