限界
そんな時に限って、店は忙しくなるものだ。
そこから三十分もしないうちに、七割程のカウンター席が埋まる。
らしくないミスが続く。
ステアの時に氷はぶつかる。
グラスを落として割る。
シェイクの音は散々だ。
リズムが乱れそうになる度に、息を止めて立て直す。
その度に、心配そうな百瀬くんと――苛立ったような安永様の視線が、オレを射抜く。
ダメだ。 オレはプロだ。
プロの、バーテンダーなんだ。
カウンターの中で、お客様の前に立っている時には、完璧でいなきゃいけないんだ。
お客様の前で頬を張るわけにもいかない。
拳を握り締めて、気持ちを入れ替えようとする。
爪が食い込む痛みは鈍く、どこか他人事のように感じた。
ギィ……と古びたドアの蝶番が軋む音が聞こえる。
市川様だ。今日はお二人か。
あのスーズ・ギムレットの夜に、堪え切れずに嗚咽を漏らしていた若い方を連れている。
表情は、霞が掛かったように遠くに見えて、笑っているのか、強張っているのかも読み取れない。
「百瀬、くん、コートをお預かり、してくれるか……。」
息が、上手くできない。
さっきの、ヒュウ、ヒュウという音がまた聞こえてきた。
――いや、これは。
オレの、呼吸の、音だ。
「おい、チーフ、大丈夫か? 酷い顔色だぞ。熱があるんじゃないのか?」
市川様に、気を使わせてしまった、申し訳ない。
「ちょっと、風邪ひいちゃった、みたいで。すみません……大丈夫です、この、くらい……。」
嘘だ。
本当は息をするのも辛い。
話すだけでも喉が焼ける、
肺の奥からジリジリとした熱が上がってくる。
いや――これは、熱じゃない。
身体が、燃え尽きる前兆だ。
「チーフ……後ろで、休んでいた方が……。」
百瀬くんの声は泣きそうに震えている。
今日が、
儀式の日だったら、
どうするんだ。
スーズ、ギムレットは、
まだ、百瀬く、んには、
はや、い。
ドクン、ドクン、ドク――。
心臓の鼓動がやけに大きく感じる。
思考が、浮かんでは言葉にならずに霧散していく。
グラリと視界が歪んで、身体がよろめく。
カウンターの作業台に手をつく。
その拍子に、出しっぱなしになっていたメジャーカップが床に落ちる。
「どう見ても普通じゃないぞチーフ! オレと約束しただろう!」
安永様の声が遠くに聞こえる、
耳の中がグワングワンと歪んで、
蜂でもいるのかな、
うる、さい。
「百瀬、さん、ごめん……ちょっと裏、いって、休んで来る……。」
「いやチーフ……今日はもう、帰った方が……。」
「流石、にまだ、も、もせさんひとり、には任せ、られ……ないから、ね……。大丈夫、さっきみたいに、少し休めば、直ぐによくなる、から……。」
足元がふらつく。 一歩ごとに視界が揺れる。
カシャンと、何か金属質なものが落ちる音がするが――もうどうでもいい。
休みたい。
壁に手をつきながら、バックヤードに辿り着いた。
これで休める、そう思って。
緊張の糸が、切れた。
ドン、と大きな音がした気がする。
背後の壁に何かが触れる、冷たい。
床が近づいてくる感覚――頭に血が上るような、鉄の味が口の中に広がるような、そんな錯覚。
頬に何かが触れる、冷たい。 気持ちいい。
「***! ***!」
百瀬くんが何かを言っている。
どうしてここにいる。
誰がカウンターを見るんだ。
喋ろうとする、うまく声が出ない。
ぜえ、ぜえ、と変な音が喉から漏れる。
「百瀬、くん……カウンター……に……戻、れ……」
「*ーフ!」
「店を……頼んだ……まも、て」
そこから先は、意識が途切れた。
もう、何処にもいないはずの彼女の影が。
寂しそうに、オレを見つめているような気がした。




