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それでも、カウンターに立つ

店内のざわめきが聞こえる。

あれ、チーフは? そんな声で目を覚ます。


時計を見ると、開店から一時間は過ぎていた。ヤバい、寝過ぎてしまった!


慌てて上着を脱いで、フロアに戻る。

少し眠ったからだろうか。身体が軽く感じた。


「ごめん、百瀬くん! すっかり甘えてしまって。」


先程よりは声も出る。

でも、まだまだ掠れた、ガラガラの声だった。


「大丈夫ですか、チーフ……もう少し、休んでた方が……。」


席は、既に三割程が埋まっていた。

焦りが頭の中を支配する。


「いや、おかげで充分休めたよ、ありがとう。何もなかった? 大丈夫だった?」


水を一杯だけ飲み、百瀬くんに確認する。


冷たい水が喉を冷やす。食道の形が水の流れで鮮明にわかる。

少しだけ、頭が冷静になった気がする。


「大丈夫です! まだ、この程度なら……。」


百瀬くんが言い掛けた瞬間に蝶番が軋む。

根津様と安永様だ。


「「いらっしゃいませ。」」


百瀬くんがお二方の上着を預かろうとカウンターの外に出る。

だが、そんな百瀬くんには目もくれず、お二人の目がギョッと見開いてオレを見ていた。

 

「チーフ、大丈夫かい? 酷い声だな。顔色も悪いみたいだけど……。」


「風邪でも引いたかも知れませんね……。いや、お恥ずかしい。なに、動いている内に治りますから、大丈夫、ですよ。」


「いや、無理しないで休んでた方がいいんじゃないのか?」


「おい、チーフ! 休め!」


安永様が声を荒げる。


店の視線が、一気にオレに向かう。空気が不穏な色を帯びたのを感じる。

――ダメだ。

こんなのは、この店では許されない。


「お気遣いありがとうございます。いや、何。このくらい、大丈夫ですよ。こう見えても、まだまだ若いんですからね。」


そう言って、大したことないふりをしてカウンターをチェックする。


そこには……百瀬くんの奮闘の跡が残されていた。


レモンやライムはカットしたまま。

ペティナイフもそのまま置き去りにされていて、拭いた痕すらない。

氷のカケラが散乱し、あちこちに水滴が飛び散っていた。


いつもなら怒らなければならないところだが、それがそのまま、オレが百瀬くんに掛けた負担のように思えて――申し訳なさに、押し潰されそうになる。

黙ってシンクの水道を流し、おしぼりを強く絞る。


荒れた指先に冷水が沁みる。この程度がなんだ。


オレのせいで百瀬くんにキャパシティをオーバーするような負担を掛けてしまった。

その痛みが、オレにとっては当然の罰のように思えた。


「あっ、すいません! 今片付けますから!」


「大丈夫だよ。根津様と、安永様のオーダーを確認してくれるかな。まぁ、ギムレットだと思うけどね。すぐに準備を終えるから。少しだけ待ってもらってください。」


「チーフ……。わかり、ました……。」


納得の行かない顔だ。

それでも、オレがカウンターに立つという意思を曲げないことを理解したのだろう。


百瀬くんがお二方の席へ向かう。

彼が戻る前には、カウンターの作業台は落ち着きを取り戻した。


さあ、ここからリセットだ。

 

お二方の顔を見つめる。

少しボヤけた視界の中、顔が二重に見える。これでは、お二人が求めるギムレットが読めない。


意識を、集中しろ。


オレは、お前は誰だ。プロのバーテンダーだ、このカウンターを守る者だ。

マスターの、帰る場所を、守るんだろう!


一度だけ下を向く、息を吸う。


一瞬、息を止める。

人体を描くためにと受講していた、大学の解剖学で学んだ血管を、頭の中に蘇らせる。

肺に取り込んだ酸素が、肺を通って心臓から血管を巡って、二酸化炭素に置き換えられ戻って来るのを感じる。


深く、深く息を吐き出し、体内の熱を口から逃す。


視界がハッキリとしてくるのを感じる――よし。

 

顔を上げて、もう一度お二人を見る。

心配そうに、オレの顔を覗き込む。その表情を差し引く。


お越しになった瞬間の、お二人を思い出せ。

昨日の契約の話が具体的に進んだのか――お二人とも笑顔で談笑していた気がする。


なら。


二つのロックグラスに丸氷を入れる。

同時に、百瀬くんには根津様のチェイサーを指示する。

ゴードンで丸氷をリンスして、すぐにその液体をグラスから捨てる。


二人で同じギムレットで乾杯するなら、基本的な味わいを変えないで、絆の深まりをイメージする。


大型のシェーカーのボディを、カウンターに置く。

氷を満たしながら、頭の中でレシピを組み立てる。

ボディの中に氷が落ちる音が、警鐘のように頭の中に響く。

身体の不調に蓋をして、意識をギムレットに集中させる。


意識がさらにクリアになる、この感覚だ。

この感覚に、祝意を乗せて――写し取れ。


冷凍庫に保存されていたゴードンを取り出す、90ml。

ライムを搾り、30ml。

ローズのコーディアルライムジュースを2tsp。

粉糖を1tsp。

隠し味にリモンチェッロを2dash。


シェーカーの中にバースプーンを入れかき混ぜる、軽く掬い手の甲に乗せる。


ひと舐め――味覚がハッキリしない。

もう一度、全神経を舌に集中させる。


まだボヤけているように感じるが、悪くない気がする。


ストレーナーを被せ、キャップを締める。

作業台に打ち付け、空気を抜く。


構える、意識を集中……いつもと感覚が違う。あの、世界と断絶する点が遠い!


これじゃダメだ。

息を止めて探る。もっと深く、深く…………届いた!


瞬間。

店内に流れていた、アート・テイタムの弾く『Tea for Two』が消えていく。


ストロークが始まる。

シェーカーの鳴らす音が、遥か遠くに響く。

荒れた指先に、シェーカーの冷たさが刺さる。


この痛みがオレを正気に戻してくれるようで、心地良さすら感じる。


敢えて粉糖を溶かし切らないように、優しく。

イメージの中で、鮮やかにシェーカーの中の液体が混じり合う。

繊細なリモンチェッロの風味を殺さぬよう、指先で温度を測り慎重にタイミングを見極める――ここだ。


スローダウン。

ピタリと止まったシェーカーの中の氷が、慣性に従って名残惜しそうに小さな音を響かせる。


二杯のロックグラスに注いでいく。

最後は、粉糖が残っている分を、意識的に根津様に出すグラスに寄せ、ほんの気持ち甘くなるように調整して。


できた――。

 

「お待たせしました。ギムレットでござい、ます。」


たったそれだけを伝えるのにも、息が切れる。

呼吸の仕方を忘れたようだった。


お二人はグラスに手を伸ばしながらも、不安げにオレの目を見る。


「あ、ああ……ありがとう。」


「…………。」


戸惑いながら根津様がグラスを手にする。

安永様は憮然とした表情のまま、ひと言も発することはない。


身体の節々が再び痛み出す、指先に熱を感じる。


全身が脈を打つように感じる。


身体中が血管になったようだ。


ちょっと熱が上がってきたかも知れない。


乾杯、とグラスを合わせるとチン、という高い音が響く。

フゥ、と満足げな溜息が聞こえる。

良かった、ちゃんと満足してもらえたようだ。


フラリ、と膝から力が抜けそうになる。

集中が途切れたんだ。

いうことを聞かない膝に力を入れて踏ん張る。



オレは、バーテンダーなんだ。


このカウンターで、お客様を不安にさせるわけには、いかない。

もう――気持ちだけで立っているような状態だった。

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