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闇に溶ける

開店準備は、結論から言えば――まったくと言っていいほど間に合わなかった。


身体が重い。その奥から熱が溢れて、とにかく熱い。視界が揺らいで、歪む。

何度も頬を張り、こんなんじゃいけない、オレはプロなんだと自分に言い聞かせる。


それでも、身体が言うことを聞いてくれなかった。

貼り付けたはずのプロの仮面が、熱で剥がれ落ちていくような感覚を覚える。


昨日のオレの様子を見て、気を利かせてくれたのだろう百瀬くんが、いつもより四十分も早く来てくれた。


まだ、おしぼりさえ準備が終わっていなかった。

良かった、手伝ってもらえば、間に合うかも知れない。


オレの顔を見て、おはようございます、と言い掛けた言葉が止まる。その笑顔が凍り付く。


「チーフ!? ひでぇ顔色じゃないっすか!」


慌てた表情を露わにして、百瀬くんが駆け寄ってくる。

その姿を見て安心したのか、膝から力が抜ける。


フラリと、身体が泳ぐ。

百瀬くんが身体を支えてくれなければ、倒れていたかも知れない。


「ちょっ、チーフ! すげえ熱じゃないですか、何でこんな体調で出勤してるんですか! 無理ですよ!」


「大丈夫……ごめん、ありがとう……。」


口を開こうとするが、喉の奥が張り付いたように乾き、言葉が詰まる。

うまく喋れない。無理に発した声は、ガラガラに掠れていた。


「今日は店閉めましょう! チーフがこんな体調じゃ無理ですって!」


それだけは……絶対にできない。

ご予約もある。根津様と安永様もお見えになるはずだ。


何より……マスターの、帰ってくる場所を。守らなきゃ。


「絶対に、ダメだ……。店は、開ける……。大丈夫だ、店が開けば、この程度……すぐに忘れる、から。」


嘘だ。


正直にしんどい。

熱が上がってきているのを感じる。

身体中の節々が熱を持って痛い。


制服の下に隠した湿疹が、焼けるように熱くなって、脈を打っているのがわかる。


それでも、休むわけにはいかない。


「どうして、そこまで! そうだ、マスターは? マスターは、来れないんですか!」


無理だ……マスターは、とても起き上がれるような状態では……。


「マスターは……お休みだ……。だから、大丈夫だから、オレが、」


そこまで言って、再び身体がぐらつく。


「チーフ! ああ、もう! 本当に頑固なんだから! わかりました、今おしぼりが……あとこのくらいか、てことは、仕入れたフルーツのチェックと掃除だけか!」


「丸、氷は……?」


「そんなの、昨日のうちに済ませましたよ! チーフのことだから、体調悪くても無理して出てくるんじゃないかって!」


「ごめ、ん……。」


「まさかここまで! とにかくオープンの準備はオレに任せてください! 大丈夫、Yでしっかり仕込まれてるんですから!」


ヒュウ、ヒュウと変な音が近くで聞こえる。


「せめて、オープンまではバックヤードで休んでてください! いくらチーフだろうが、これは絶対に譲れませんからね! オレの方が年上なんだ、そのくらい言うことを聞け!」


頭が熱い、ちゃんと考えられない。

自分でも今の状態が良いわけではないことがわかる。


「ごめん……今日はちょっとだけ、甘えさせてもらいま、す……。少し、裏で休んでるね。開店の時間には、起きる、から……。」


それだけを伝えて、百瀬くんの肩を叩いて、後を託す。

こんなことをさせるために来てもらってる訳じゃないのに。

――本当に、申し訳ない。


「チーフ、昨日疲れてるって言ってたし、今日は明らかに普通じゃないですよ! このくらいいくらでもやりますし、気にしないで! 休める時は裏で休んでてくださいよ!」


胸を叩いて、オレに笑顔を見せる。


「ヘルプだからとかそんなこと気にしないで、もっと頼ってください! オレ、まだまだ頼りないかも知れないけど、頑張りますから!」


目頭が熱くなる。

百瀬くんの優しさに、甘えてしまいたくなる。


「あり、がとう……。」


それだけしか言えず、歪む視界の中、這うようにしてバックヤードに辿り着く。

上着を羽織って、椅子に腰掛ける。

ステンレスの作業台に頬を付け、冷たい感触が気持ち良いな、と感じたと同時に。



オレの意識は――闇に溶けていった。

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