幻聴と仮面
アラームの音が響いて、現実が帰ってくる。時計を見ると、もう十五時だった。
チキショウ、また進まなかった……!
下級生の一人が、見てはいけないものを見たように、慌てて視線を下に彷徨わせる。
見たことのある顔だ。誰、だっけ……。
ふと、作業着が少し濡れていることに気付く。ああ、オレ、いつの間にか泣いてたのか。
どうでも良いや。
ゲホッ、
ゴホッ、
ゲホッ。
絵の具に油紙を被せておかないとな。
明日も描きに来る時間を作れると良いんだけど。
ゴホ、
ゴホッ、
オエッ……。
激しい咳が続き、喉の奥が引き裂かれるように痛む。
洗い場に向かい、咳とともに痰を吐き捨てる。水道の蛇口を捻って水を流す。
赤いものが見える、なんだろうこれ。水に溶けて、淡い朱色に広がる。
それは、さっき使ったバーミリオンのチューブの色に似ていた。
金属のような味が口の中に広がる。
オレの身体が、作品のための画材になっている。そんな錯覚を覚えて、小さく声を上げて嗤う。
ふと、水道から流れる水の音が、"あの日"の長いクラクションのように聞こえた。
葬列の音――冬だというのに、蝉が鳴いている。
やけに響く。うるさい。
「チーフ! 今日もよろしくお願いします!」
幻聴だ。
いや、幻聴だけではない。
「……マスターも今日はお休みですしね?」
過去の自分が発した、雪の夜のカウンターの言葉。
「ゲホッ、グ、グボァッッ!」「マスター!!」
あの、雪の夜のマスターの咳き込む声――そして、マスターを呼ぶ自分の声が、アトリエの水道の音と重なる。
黒い床を塗り潰す、マゼンタ。
「ありがとう、って、言うんだよ。」
もう二度と聴く事のできない声が、頭の中に響き渡る。顔の消えた幻影に手を伸ばす。
「……お客さんが、待ってるぞ……。」
誰の声だ。マスターの声か。それとも、もう一人の自分か。
身体が冷え切っている。
皮膚の下の血管が、氷のように冷たい。暖房をつけなかったせいだ。身体の芯から震えが来る。
平衡感覚が揺らぐ。
壁に手をつかなければ、そのまま倒れそうになった。
ダメだ、意識を集中しろ。急がないと、間に合わないんだ……!
爪の間に入り込んだ絵の具を、タワシを使って洗う。力任せに擦るせいで、薄く血が滲む。
この荒れた手じゃカクテル作れないよな、
ハンドクリーム塗らなきゃ、
今何時だっけ、
そういえばカドミウム・イエロー切れてたな、
フルーツ何発注してあったかな、
ハンドクリームって一日ご飯抜いたら買えるかな、
急いで、行かなきゃ。
思考の奔流が止まらない。
一つ一つがバラバラで、全く繋がらない。
アラームがもう一度鳴る。十五時半。
十六時には仕込みを始めないと、開店、間に合わない。
変身の儀式を始める。
絵の具と汗と涙にまみれた作業着を乱暴に脱ぎ捨て、朝着てきた私服に着替える。
制服は店で着替えるにしても、営業前に集中しなければならない。
プロのバーテンダーという、もう一つの顔を装着して、身だしなみのルーティンを確認していく。
鏡を見て、乱れた髪を整え、表情から全ての疲労を消し去る。
バーテンダーは、カウンターの中では、笑顔でなければいけない。
荒れた指先だけが、今の生活を隠し切れずにいる。
特に、右手の指先。油絵の具は、皮膚から水分を奪い、爪の周りの皮膚を硬くする。
その皮膚がタワシで擦られ、無数の微細な亀裂を生んでいる。
この状態でシェーカーを振れば、氷の音に混じって皮膚の痛みが神経を突き刺す。
救いを求めてハンドクリームを取り出す。薬局のプライベートブランドの、一番安いもの。
もう残りも……ほとんどない。押し込むようにして、何とか捻り出す。
また新しいのを買わなきゃな。
それを、丁寧に、しかし急いで、指の一本一本に塗り込む。皮膚の亀裂にクリームの油分が滲み込む。一瞬だけ、鈍い痛みが走る。
しかし、この時間こそが、プロのバーテンダーとして手の荒れを隠し、お客様に不快感を与えないという最後の規律を守るための儀式。この安いハンドクリーム一本が、今のオレにとって、プロの顔を守る唯一の盾だ。
プロの笑顔を貼り付け、深く息を吸う。
テレピン油の臭いを、記憶の中にある店で使うライムやミントの香りに上書きする。
忘却――アトリエでの熱を、この場で全て切り離す。
ピエタを忘れろ。ジンの銘柄を思い出せ。
発車のブザーの鳴るバスに飛び乗る。
座席に座るという行為すら、背中の筋肉が悲鳴を上げた。
目を閉じて、思考を強制的に切り替える。
今日の予約、確か少し遅い時間に一件だけ、
あ、でも根津様が安永様と来たいと言っていたはず、
それぞれのギムレットを今から考えておこう、
フルーツはちゃんと届いてるかな。
ジン・フィズ用のレモンは極力皮の傷んでいないものを選び、残りはスクイーズに回さないと。
この思考の断絶こそが、バーテンダーとしての技術だ。
私的な苦悩をカウンターに持ち込まない――お客様のグラスに、血の味や空腹の影を混ぜてはならない。
バスが店に近づくにつれて、身体が硬直していくのを感じる。
バスを降り、店の前に着いたのは、開店の時間から逆算すると、奇跡と言って良い程ギリギリの時間だった。
古びたドアの蝶番が、今日の夜も重い軋みを上げるだろう。
このドアが開く時、オレは芸術家の卵ではなく、ギムレットの王になる。
ゲホゲホッ!
咳が出る、風邪でも引いたか? どうせ店が始まれば忘れるだろう、大丈夫だ。
ドアを通り過ぎてバックヤードの入り口へ回る。鍵を開け、ドアに手を掛けた。
店の前のドアに比べたら控え目な蝶番の軋む音が、オレの背中を鼓舞するように……あるいは咎めるように、響く。
さあ、ここからは――ギムレットの王の時間だ。




