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マリアの顔

今描いているのは、『ピエタ』だ。

ルネサンスの天才、オレの憧れの一人、ミケランジェロに挑む。


百号サイズの大きな作品。

縦1.5メートルを優に超える巨大なキャンバスが、専用のイーゼルに立てかけられ、まるで巨大な白亜の墓標のように――オレを威圧するように佇んでいる。


アトリエには、油絵の具の鼻を突く匂いと、テレピン油の鋭い臭気、そして換気不足による冷たい空気が充満していた。

温度計を見ると、室温は十度を下回っている。

少しでも身体が冷えた方が、意識がシャープになるような気がした。


隣のスペースでは、オレには目もくれることなく、同級生達が卒業制作展の作品に夢中になって取り組んでいる。

もう、オレは間に合わない――だから、せめてこのピエタだけでも。


遠巻きに、下級生たちが怯えるように固まっている。

オレのスペースだけが、周囲とは隔絶された、暴力的なまでに張り詰めた空気に包まれている。


誰もオレに近づこうとしない。


彼らの目には、オレが「狂人」として映っているのだろう。

それでいい。


巨大なキャンバスに向かう。

筆に絵の具を塗りつけ、睨みつけるように向き合って、顔を近付ける。

ミケランジェロの、サン・ピエトロ大聖堂のピエタをモチーフに、大切な息子を殺され、喪って、その表情はできないだろ、とマリアの顔を歪ませてみる。


オレが描きたいのは、地獄だ。


憎悪、悲哀、絶望、自責――。


だが、サン・ピエトロ大聖堂のピエタの。

あの全てを受け容れたような、穏やかな表情。


それを超えられない。

あの穏やかさの中にこそ、究極の「赦し」と「復活」が隠されている。

オレには、その赦しが……許せなかった。


――オレが描きたいのは、こんな顔じゃ、ない。


顔に塗り重ねた絵の具を、ペインティングナイフで削る。


硬化したマチエールの上を金属の刃が擦る、「ザリ、ザリ」という音が、オレの耳奥に響き、神経を鋭く削り取る。


ゲホッ


乾いた咳が、静まり返って何の音もしないアトリエに響く。肺の奥が、ジリジリと焼けるように痛む。

余計な事だ。


マリアの表情が、この作品の全てを決める。

今は他のことは考えたくない。考えてはならない。


ジリジリと、肺の痛みを感じる身体の感覚を、身体の外に置く。

この身体は、今はただの「道具」――新しいピエタを生み出すための、ただの「器」に過ぎない。

 

――違う、オレのマリアはこんな表情をしない。


また削る。


絵の具とオイルを混ぜ合わせる。

マリアの顔がわからなくなる。生きているマリアに、見えない。

いや、このマリアは大理石の、石像だ。

あぁ、でも、オレの作品で、マリアを生き返らせないと。


キャンバスに、顔のないマリアが描かれている。

ふいに思い出の中のあの人の顔が……マリアの顔に重なる。


白い光が、キャンバスの顔の輪郭を照らす。

その光の中で、その顔は、ほんの数秒だけ、鮮明なリアリティを持って浮かび上がった。


あぁ、この顔だ。今すぐ写しとらなきゃ。

目を凝らす――顔が……消える。


記憶の霧が、視界を覆う。

細部が思い出せない。 目の色も、鼻の高さも、唇の形も。

どんな表情だったんだっけ、あのマリアが、オレが描きたいマリアなんだ……。


焦燥感と共に、視界が滲む。


消えないで。

もっと見せてくれ。


オレの、オレだけのマリアを。


頼むよ、もう一度、戻って……! 見せろよ、オレに! 消えないでくれ……!!


熱い雫が頬を伝う。


それが何かを認識するより早く、無防備に開いた唇から塩気のある水が口の中へ侵入し、こぼれ落ちてキャンバスに落ちる。

カドミウム・イエローと混ざり合い、美しい金色の顔料を汚していく。


塩気と、毒性の顔料の異臭が混ざり合い、強烈な不快感がオレの胃を圧迫した。


込み上げる胃液を飲み込んで、オレは絵筆を握り続けた。

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