絵の世界へ
小さな頃から、絵は自然と描けていた。
不思議だった。
目に映る物、それを写しとっているだけのつもりだったのに。
小学校の頃、描いた風景画が市のコンクールで最優秀賞を取った時。周囲の大人は、「すごいね」「天才だ」と褒め称えた。
だけど、幼い自分には、そうは思えなかった。
ただ、見えた通りに描いた――それだけだ。
まるで自分の目が高性能なカメラのようで、「撮った」ものがそのまま出力される感覚。
そこに創造性があるのか?と幼いながらに疑問を抱いていた。
それでも、描ける、ということは、いつしか喜びになっていった。
自己肯定感を満たしてくれる、それは便利な道具……手段でしかなかったけれど。
だが、その喜びは、最優先されるようなものではなかった。
幼い頃から、オレはサッカーに夢中だった。
絵を描くことよりも、泥にまみれてボールを追いかけることの方が、「生きている」と感じられた。
絵は描けば褒められる。
それでも、ボールを追い、走り、ゴールを狙う。
それだけの遊びの方に、いつしか心を奪われていた。
家では親父の暴力と、無理矢理な勉強の押し付け。
小学校に入学した頃には、自宅で一日五時間もの勉強を押し付けられていた。
それをクリアしなければ食事すら許されない。
親父は野球が好きで、晩酌をしながら贔屓のチームの試合を観るのが日課だった。
そして、そのチームが負けると酒の勢いでオレを殴る。
学校のテストで百点を取らなかった。
勉強をサボった。
そんな有りもしない理由を作り出して。
母親は黙ってそれを見ているだけだった。
もう――疲れ果てていたのだろう。中学に上がる前には、母親は消えた。
親父は公務員としてそれなりの立場にいたから、家に金はあったはずだ。
そして、外面も良かった。
だから、家族以外にオレがそんな虐待をされていることを知る者はいなかった。
小学校の部活が始まる時、絶対に部活に入る、と決めたのは。そんな家から少しでも離れたいという願いも、あったのかも知れない。
選んだのは、周りに褒められる美術部ではなく、やっぱりサッカーだった。
ただひたすらに泥に塗れ、走り回り。
オレに野球をやらせたかった親父は、良い顔をしなかった。
勉強を頑張ること、練習の疲れを言い訳にしないことを条件に許してもらった。
その後は、順調だった気がする。
小学校ではレギュラーになり、ヨハン・クライフと同じ十四番を背負い、ゲームを支配する。
そのまま地域の中学に進学して、同じ十四番をもらい、一年からレギュラーになれた。
まだまだ体格差は大きくて、練習中や試合中に吹っ飛ばされることも多かった。
それでも、オレのパスが試合を決め、県のトレセンに選抜されることができた。
とにかく、パスの精度を上げることに熱中していた。
フィールドの中では、オレは試合をコントロールする王様だった。
もちろん、約束だった勉強も疎かにすることはなくて、試験でも学年五位以内を下回ることはなかった。
そして、あの中学二年の冬。
グラウンドの冷たい土に叩きつけられた時、膝から鈍い、嫌な音がした。
その瞬間、世界がスローモーションになった。空は青く、土の匂いが鼻を突く。
自分の身体だけが、もはや自分のものではない、異物になったように感じた。
「もう以前のようには……走れません。」
医師から告げられたのは、オレの全てを奪う残酷な宣告だった。
手術と、無意味に終わったリハビリの日々。すべてが無駄だった。
全力で走る。ジャンプする。ボールを奪う……。
相手を切り裂くようなスルーパスも。ネットを揺らすゴラッソも。
その一つ一つが、もう二度と自分のものにならない。
自分の身体が、自分の意図から遊離していく絶望感が、すべてを塗り潰していった。
それでも、一縷の望みに賭けて、手術後の地獄のようなリハビリに耐えた。
治る見込みが限りなく低いことを知らされながら、それでも、親父の監視下で、必死で続けた。親父はオレを「一流の選手」にして、その成功を自らの誇りとして利用したかったんだろう。
それを知りながらも、オレ自身がもう一度走りたかったから。
それでも、結果は変わることはなかった。
オレがもう走れないと知ると、親父は突然、サッカーへの関心を失った。
「馬鹿な真似をしやがって。どうせ半端者になるくらいなら、最初から勉強だけしていれば良かったんだ!」
親父は、病院ではオレに優しい気遣いの言葉を掛けていたが、家に帰ればそう言ってまた殴ってきた。
膝のテーピングのせいで踏ん張れないオレは、吹っ飛ばされることしかできなかった。
その現実から逃れるように、オレは勉強に打ち込んだ。
その時も、絵はただの逃避に過ぎなくて。
たまに鉛筆で似顔絵を描いたり、美術の授業で絵筆を取る程度。
まだ夢中になるほどのものではなかった。
それでも、美術部の連中を差し置いて、県のコンクールで入賞したりして、悔しがられることも多かったけど。
高校は県内でもトップクラスの進学校だった。
そして。 高校に入って、"手痛い失恋"をして。
オレは、荒れた。
この頃には背も伸びて、親父よりも背が高くなっていて、殴られることは無くなった。
家に寄り付くことも減り、喧嘩に明け暮れ。学校にも行かなくなって。
そんなふうに荒れた時も、絵だけはちょこちょこ描いていた。
好きなミュージシャンのアルバムジャケットを、ノートの端に描いてみたり。
美術の教科書の絵を、気紛れに模写してみたこともある。
球技大会のパンフレットの表紙を、美術部員を差し置いて頼まれたこともあった。
この頃は何も考えずに、趣味というほどでもなく、ただ人よりも上手く描けるという行為に満足していただけだった。
まさかその道を進むことになるだとか、そんな大層なことは考えてもいなかった。
強いて言うなら……親父への失望と、手痛い失恋、の穴埋めだったのかも知れない。
高校二年も終わりに近付いた頃、家に寄った時。親父から、大学はどうするんだ、と聞かれるようになった。
親父は、自分が高卒だったことから学歴コンプレックスを拗らせていたことをこの時初めて知った。
オレは親の庇護という名の束縛から早く逃れることしか考えられなくて、高校を出たら働くつもりでいた。
親父は今度は泣き落としのつもりか、自分が社会に出てどれだけ苦労したかを切々と語ってきた。
小学校の頃の、友達と遊ぶことも許されず。
息抜きに当時流行り始めていたゲームすらも買ってもらえず。
サッカー以外のすべての自由を奪われていた恨みが爆発して、何度もぶつかった。
オレが絶望の中にいたある夜のことだった。
再びのありがたい説教が始まった時、オレは反発して、「大学ならどこでも良いんだな」と捨て台詞のように言い放った。
親父は一瞬絶句し、その顔に浮かんだのは、「軽蔑」と――これで面倒な反抗期が終わるという安堵。
親父のちっぽけなプライドと、くだらないコンプレックスが、オレの将来よりも優先された瞬間だった。
せっかく行くのなら、美大にしよう。オレが一番描きたいものを描ける場所にしよう、と。それが高校三年の、夏。
あることがきっかけでヤケになって、全部投げ出したくなって。
全部忘れるくらい、打ち込めるものを探していた時だった。
反骨心と自暴自棄が入り混じったような、投げやりな気持ちで決めた。
そして、その内心には、どうせならコイツの今の拠り所である金を無駄にしてやろう、という復讐心もあったことは否めない。
金の重さを知らないガキだからこその、残酷な幼稚さだったんだと今ならわかる。
そうして受かったのが――今通ってる大学。
だが、そこでもオレは異才と呼ばれた。
専門的な指導は初めて受けたというのに、あり得ないほど吸収が早い、と教授から評価を受けていた。
オレ自身も、反骨心と復讐心、そして自暴自棄だけで進んだはずの絵の世界に……ハマっていくのを感じていた。
気が付いた時には、のめり込んでいた。




