レジの前で
「それでは根津様、本日もありがとうございました。ごゆっくりお休みくださいませ。」
根津様にとっても安永様にとっても、良い方向で話はまとまったようだ。
終始上機嫌でほろ酔いのいい気分になったところで、詳しくは明日、ということになった。
今はお帰りになる根津様を、安永様と二人でお見送りだ。
「ああ、こちらこそ。では安永君、また明日にでも会社に来てくれるかな。できれば夕方にしようじゃないか、そのまままたチーフの酒を楽しもう。」
「ありがとうございます! かしこまりました、お伺いするお時間につきましては、また明日ご連絡させてください! 今日は本当にありがとうございました!」
おお、こうして見ると安永様、ちゃんとサラリーマンやってるんだな、なんてつい思う。
タクシーに乗り込み、片手を挙げる根津様を見送る。
「良かったですねぇ安永様!」
声を掛けてドアに手を掛ける。
蝶番を軋ませて、ドアの中に滑り込む。
「いや、ホントだよ。これもチーフのおかげさ! ありがとな!」
そのまま身震いを一つ。
「いやぁ、それにしてもちょっと外に出るだけでも冷えるねぇ。オレもそろそろ帰るかな。領収書、頼めるかい?」
「かしこまりました。安永様が領収書とは珍しいですね、宛名をお伺いできますか?」
安永様にとってはここは隠れ家なのだろう。
誰かをお連れしたことはなく、記憶の限りでは領収書を求められたのは初めてだった。
その足でレジに向かう。
安永様も後をついてくる。別にお席までお持ちするのにな。
「安永会計事務所、でよろしく!」
「かしこまりました。……あれ、安永様、会計士さんだったんですか!」
「言ってなかったっけ? まあ、最近独立したばっかりの小さな個人事務所なんだけどね。帳簿とか見るのは得意だからさ、この店のも見てやろうか?」
「そうですね、今度お願いしても良いですか? マスターの頃からのお付き合いでお願いしているところはあるんですが……イマイチわからなくて任せっきりでして。いやぁ、それにしても人は見かけによらないとは言いますが。」
「ちょっと! オレをなんだと思ってるの!」
憤慨したようなそぶりで安永様がカウンターを叩く。
「人に変なあだ名を付ける人、ですかね?」
他に何かあるかな?
「いやだからそれは何回も謝ってるじゃない!? そろそろ勘弁してよ、チーフ!」
「ははは、これは失礼しました。お待たせしました、領収書です。」
渋々といった表情で領収書を受け取り、目を通して確認をしている。
「ありがと、う……。」
ふいに、その視点が止まる。
あれ、字を間違えてたかな?
「なぁ、チーフ。」
――いつもの、安永様のトーンじゃない。
「その封筒、なんだ。」
安永様の視線は、さっき片付けてあったはずの帳簿を見つめている。
封筒が、帳簿の陰からはみ出していた。
国立がんセンター。
――その文字が、カウンターの照明に浮かび上がる。
指先でその封筒を帳簿のページに戻す。
「がんセンター、って。 お前まさか、今も、」
聞いたことのないような低い声が、胸に突き刺さる。
「安永様。どうか、それ以上は……。」
言わないでくれ――お願いだから。
絞り出すような、小さな懇願するような声が漏れる。
「……わかったよ……。約束、だからな。ただな、チーフよ。」
見たことのない、怒りの色を宿した目で、見つめてくる。
「お前、本当に無理すんなよ。顔色、悪いぞ。」
胸が痛い。
「ご心配をおかけして、すみません。でもホント、大丈夫ですから。」
お会計を済ませながら、心が揺れる。お釣りを取り出そうとする指先が震える。
「釣りはいいから、美味いもん食えよ。それじゃ、行くか。」
百瀬くんがクロークから取り出した安永様のコートを取り出して渡している。
心が泥濘に囚われたように、深く沈んでいくのがわかる。
でも、今はこうするしかないんだ。
ケホッ
また咳が喉を突いて出てくる。
いけない、ちゃんとお見送りしないと。
蝶番が軋む音が、オレを咎めるように響く。
ドアがやけに重く感じる。暖房で暖められた店内を、冷たい外の空気が塗り潰していく。
「今日はすみません、ご心配ばかりおかけして。本当にいつも、ありがとうございます。」
深く頭を下げる。
安永様が、あの秘密を誰にも言わないでいてくれるから、この店は守られているんだ。
「ホント無理だけはすんなよ? 忘れてねぇだろうな?お前が、無理は絶対にしないってのも――約束の中には入ってんだかんな?」
「はい、もちろん承知しております。気を付けます。」
大丈夫だ。オレはまだ、平気だ。大丈夫なうちは、無理をしていることにはならない。
自分に、言い聞かせる。
「ん、それならオレから言うことは何もねえよ。また様子見に来らぁな。ほんじゃね。」
片手を振りながら、安永様の背中が遠くなっていく。
「ありがとうございました。」
寒いはずの外の空気が気持ちいい。
迷いが行き場をなくして、渦巻いている。
冷たい風が一つ吹いて、沸き立つ心を冷やしてくれるようだった。




