安定と請求書
百瀬くんがヘルプとして固定になってしばらくが経ち、オレの疲労は大きく改善された。
少しずつではあるけれど、お客様のカクテルも任せることができるようになり、洗い物や掃除といった雑用も積極的に引き受けてくれる。手の荒れも一時期より落ち着き、痺れを伴うような痛みも減った。
店の営業もこれまでになく安定し、大学の授業に顔を出せる、時間的な余裕もようやくできた。
数ヶ月前には、とても想像できなかった変化だった。
快く百瀬くんを出してくださり、研修だからと人件費まで負担してくれる横山マスターには、本当に頭が上がらない。
三井ご夫妻が、相談するきっかけをくれたことにも改めて感謝したくなる。
もちろん、誰よりも百瀬くんの頑張りは大きい。
本当に、沢山の人に支えられて、この店は守られているような気がした。
恩を受けたからには、いつか返さないといけない。
そう思いながらも、とりあえず今は目の前の作業が優先だ。
荒れた指先に触れる、乾いた少し厚めの紙。
そこに並ぶ数字の羅列が、美大生であるオレの頭を圧迫する。
「文系なんだよ、オレは……。」
独り言を吐き、手元の請求書と睨めっこしつつ帳簿を付ける。
大学のパソコンで必死に覚えた、見様見真似の出納帳の数字は何度弾いても合わずに、右往左往する。
請求書から数字を書き写す。ふと、違和感を覚える。
あそこの酒屋、また値上がりしたのか。
仕入れの量はそこまで大きく変わっていないのに、そこに記載された数字は先月より5%も跳ね上がっている。
年が明け、冬の寒さがますます厳しくなり、青果類の仕入れ値はさらに跳ね上がっていた。
ジン・トニックのライムや、カクテルの飾り付けのオレンジすら、気軽に切ることを躊躇いそうになる。
酒の仕入れを減らすか……だが、いつ無くなるかビクビクしながら営業するわけにもいかない。
今月の棚卸しは一日がかりになりそうだな、とゲンナリする。
次は人件費、だが時給の計算はオレだけでいい。
いちいちタイムカードを付けるのも面倒だから、固定給に変えようかなと思ったこともあったが、結局チーフに任命された時から変えていない。
そんな決定権もない。
給与の計算を終え、ふぅ、と溜め息を一つ。
棚卸しが終われば、締めた帳簿を会計事務所に送るだけ。後はやってくれる。
少しくらいは利益を残せただろうか。
先の見えない不安に蓋をして、帳簿から目を離す。
途端に、視界の端で開封前の請求書がわずかに浮き上がる。
大きな溜め息をもうひとつ落として、手を伸ばした。
ここまで、意識的に見ないようにしていたものだった。
「今月も……厳しいな……。」
封を切って数字を見た瞬間、胃のあたりがきゅっと凍りつく。
先程算出したオレの給与と、請求書に記載された額はほとんど変わらない。
画材を買ってしまえば、残るのは数千円が良いところ。
生活費の、足しにもならない。
「……仕方ない、か。」
小さく呟きながら、請求書をそっと伏せた。
その指先は、まるで冷たいナイフに触れたように、かすかに震えていた。
見間違いじゃないよな、ともう一度給与を計算する。数字は変わらなかった。
メモ帳を一枚、破り取って殴り書きの計算をする。計算をするまでもなく、わかりきっていたことだけど。
まあいい、今月も食費を切り詰めればいいことだ。
どうせ、絵を描く時は食欲は全くなくなる。
食事を抜くことには慣れている。
満足感を味わってしまうと、満たされた感覚が邪魔をして、絵に向かうモチベーションが無くなる。
美味しくて幸福な食事は、今、オレには必要ない。
だから、時折セールで安く買えるパスタとオリーブオイル。
味付けは塩と胡椒、それだけ。
具なんてものはどこにもない、満腹感も味すらない。
エサのようなメシくらいが、オレにはちょうどいいんだ。
そう自分に言い聞かせる。――胃の奥から響いたキュウ、と小さな悲鳴を上げる腹をグッと握りしめ、聞かなかったことにする。
ケホッ
乾いた咳がひとつ。
そういえば、そろそろ乾燥が気になる季節だ。加湿器を見えない位置にセットしておこう。
そろそろ開店の準備に入らなければならない。
帳簿と請求書を乱雑に仕舞い、鍵をかけるように、意識を切り替える。
ここからは、プロとして動く時間の始まりだ。荒れた指先で、おしぼりの準備を始める。
おしぼりをウォーマーにセットして、フルーツをチェックする。
丸氷は、今では百瀬くんに担当してもらうようにしている。この作業が荒れた指先にしみるのも大きいが、ペティナイフの扱いの習熟にはもってこいの作業だからだ。
この作業のための時間を、オレがトイレやフロアの清掃と並行してできるようになったことで、オレの出勤時間にもかなりのゆとりができるようになった。
一通り、大まかな開店準備が整ったタイミングで百瀬くんも出勤してくる。
「おはようございます! 開店準備もうバッチリっすね……。何でオレは来ちゃダメなんすかぁ?」
請求書を見られる訳にはいかない、という理由は伏せて、表向きの理由を述べる。とはいえ、これも本心だ。
「百瀬くんのお給料は、Yから出てるだろ? あくまでも百瀬くんは研修として来てくれているんだ。雑用なんてさせられないからね、勉強に集中してもらいたいんだよ。」
「そうですけど……。開店準備でも勉強になることだって、たくさんありますよね。それも勉強したいんですが?」
「それも確かにあるけれど、まずはもう少し安定してカクテルを作れるようになってから、だね。こないだも、ステアの時に氷がぶつかってたじゃないか。」
ステアの技術は、明確にバーテンダーの根底だ。
絶対に疎かにはできない。
シェイクは派手だし、それなりに練習した程度とか、真似ごとでも何となくサマにはなるだろう。
もちろん、プロとアマチュアでは雲泥の差が生まれることは言うまでもないことだが。
だが、ステアだけは、本当に反復練習だ。
一日この練習をサボれば、自分でわかる。
三日もサボれば、バーテンダーならわかる。
一週間もサボれば、お客様にも伝わる。
だから、オレもステアの練習は、一日たりとも欠かしたことはない。自宅でするようになった今でも、だ。
本当にそのバーテンダーの腕を見たいならステアを見るべきだと思う。
「うっ……すみません、もっと勉強します……。」
笑い返しながらトイレの清掃に入る。
百瀬くんには今のうちに丸氷をやってもらおう。
そして、瞬く間に開店準備が終わり、いよいよ今日の営業開始の時間が訪れた。
さあ、今日も頑張ろう。
重いドアの蝶番を軋ませ、看板を出す。肌を突き刺す寒さに身を震わせながら、今日の蝶番はやけに軋むな、なんて感じていた。
コンセントを繋いで、看板の灯りを灯し、店の開店を街に知らせる。
今日もたくさんのお客様が来てくれると良いんだけど。
そんなふうに願いながら、カウンターに戻る。




