雫
課長の手が、グラスの脚を摘んで持ち上げ、口元に寄せる。スゥ、と音が聞こえるほどに香りを吸い込む。
「すごいな……色んな酒を飲んできたが、コイツは……こんなに爽やかな香りの日本酒は嗅いだことがないぞ!」
おおっ! とどよめきが走り、誰かの唾を飲み込む音がする。
ゆっくりと唇が触れ、グラスが傾けられていく。小さく喉仏が動いて、さらにひと口。
フゥー、と長い溜め息が漏れて、グラスがコースターに戻される。
「………………。」
目を閉じたまま、何も語らない課長の表情からは、何の感情も読めない。
「か……課長! どうだったんですか、うまいんですか!」
「…………うまい、なんてもんじゃない。これが、日本酒だとしたら……今までに飲んできたのは、一体何だったんだ!」
「恐らく、それは製法の違いですよ。」
「製法の、違い?」
「はい――先程、市販品ではない、と申し上げましたよね? 実はこれ、品評会用の日本酒なんです。」
工藤さんが食い付いてくる。
「良く金賞、とか出してる、アレ?」
「はい、その金賞とか言ってる品評会、ですね。市販品選びの目安としては、そのまま受け取れない面が大きいですね。私は、あの見せ方にはかなり問題があると感じています。だって、あの品評会に出してる酒と、市販品はほとんどが別物ですから。」
「えっ、そんなことあるの!? 詐欺じゃんそれ!」
「そう感じてしまいますよね。ハッキリと申し上げて品評会の評価をそのまま売り文句にするのは業界の悪習ですよ。単なる権威付けになってしまってるな、と感じています。」
そう――金賞を受賞した、と聞けば美味しさが保証されているように思えるが……実は、賞を取った酒と、同じ銘柄で流通している市販品は多くの場合別物なのだ。
そして、そんなことは消費者には一切わからない。
結果、賞を取ったならおいしいんだろうと信じた消費者は、こんな物が評価されているのか、とガッカリして二度と買わなくなる。
日本酒業界の悪習そのものだ。この悪習が、日本人の日本酒離れの原因だと思う。
本物の日本酒は、こんなに美味しいというのに、だ。
「このお酒は、まず純米酒です。大吟醸、と聞いております。生酒で、火入れをしていないとも。そして、これが一番の違いなのですが……こちらは『袋吊り』と呼ばれる製法で造られています。雫酒、などとも呼ばれますね。」
「袋吊り? 雫酒? 聞いたことないな……。」
課長の疑問ももっともだろう。精米歩合を表す吟醸、大吟醸に拘る人は多い。
あと多いのは純米酒であるか否か、だろうか。
火入れまで気にするのは、かなりの通だろう。
「はい。通常、日本酒は醪から酒成分を絞り、濾して造られることはご存知でしょうか?」
課長と係長が頷く。他の四名の方はご存知ないようだ。
「こちらの袋吊り、というのは――機械で強く圧搾せず、醪を入れた袋から自然に滴り落ちた雫を集める方法です。そのため、どうしても生産量も落ちる、貴重なものなのです。」
ほぉ、と感嘆の声が漏れる。
「強く圧をかけない分、雑味が出にくく、澄んだ香味になりやすいのが特徴です。」
それを聞いて、課長がもう一度グラスの中の日本酒をまじまじと見つめている。
「品評会はこの袋吊りのように、専用に近い造りの酒が多く、それを元に判断されています。その年の米の出来や発酵具合、醸造技術の安定や向上を見るもの、ということなんでしょうが、実際に販売する際には絞ったり、醸造用アルコールを添加したりして販売されることもあります。なので、品評会の評価というのは、市販品の評価とは厳密に同じとは言えません。」
「そんな……! っていうか、醸造用アルコール、って、何?」
「最近は少しずつ変わってきてはいるらしいのですが。元々は、水増し目的で添加された、工業生産の飲用エチルアルコールです。日本酒が臭い、というイメージには、昔の粗い醸造用アルコールの印象がかなり大きいと思います。」
課長が、そこで大きく反応する。
「そうなんだよ! 臭い日本酒も多くてな、日本酒がある、と思って頼んでも、中々当たりに巡り会えないんだ!」
「そうなりますよね。醸造用アルコールの添加は戦後の米不足の頃の苦肉の策だったはずなんですが、慣習として今も許されています。もっとも、今はサトウキビ由来の、より品質の良い物に変わり、添加量も定められてはいます。昨今では吟醸香を引き出したり、香味を整えたりする目的でも使われるようになったとか。」
皆様の目が、テーブルに置かれたラベルもない瓶に注がれる。
「ただ、純米だけでは出ない方向に香味を動かす以上、私にはどうしても付け足しに思えるんです。それは本来の味わいを誤魔化しているのではないかと。やはり日本酒本来の味を楽しみたいなら、純米酒を選ばれるのが一番、ではないでしょうか。」
うぅーむ、と唸りながら課長がグラスをもう一度傾けて、口に含む。
「……いやぁ、こんな洒落た店に、まさかこんな素晴らしい日本酒が隠されていたとは……。これが日本酒本来の味、か……これは、本当にうまい! すごいぞ、この酒は! みんな、飲んでみろ!」
その言葉を受けて、二脚のワイングラスに注いでいく。
回し飲みをするように味わいながら、皆様が感嘆の声を上げて笑顔になっていく。
楽しそうな皆様の顔を見て、オレはこの一本の値段を決めた。
「決めました。元々日本酒がお好き、という方に飲んでいただきたくて置いていたものです。なので、こちらは無料で構いません。」
「む、無料!?」
「はい。実は、元々出入りの酒屋さんが、小さな造り酒屋さんからいただいたものらしくて。私もいただいて美味しかったので、一本お裾分けいただいたんですよ。なので、仕入れ値自体もかかってないので、値付けのしようがないんです。」
それに、と付け加えて、
「酒屋さんからは日本酒が本当にお好きな方にお出ししてください、と言われていたんですよ。お客様が皆様にも振る舞われて、皆様が喜んでくださったのなら……それで充分ですよ。」
やった、ラッキー! なんて誰かが呟いた。工藤さんの声だった気がするけど聞かなかったことにしよう、と思っていたところに、課長が割り込む。
「……いや! ダメだ! こんな感動させてもらって、無料だなんて気が済まん!」
「えぇ! せっかくチーフがタダでいい、って言ってくれてるのに、甘えましょうよ課長!」
やっぱり工藤さんだったか……。せっかく聞かなかったことにしたのにな。
「ダメだ! それに、公務員としてそういう訳にはいかんだろう!」
うーん、とは言え仕入れ値かかってないから、棚卸にも載せてなかったし、本当に値付けに困るんだよな……。
そこで、ふと閃いた。
「あぁ、でしたらこうしましょう。こちらは、あくまでも試飲です。」
「試飲? とはいえ、一本丸々もらってそれは、」
「はい、試飲です。さすがに職場の皆様全体で、はお店としても入り切りませんが、本日のような部署別とかの、小さな飲み会であれば是非また当バーをご利用くださいませんか? さすがに品評会用のものは手に入らないかと思いますが、近い物をこれからも仕入れますので。」
今後のご利用のための試飲なら、筋が通るだろう。
それに、五、六名様前後での定期的なご利用が見込まれるとなれば……店としても貴重な売上が見込める。
「……よし、それならありがたくお言葉に甘えさせてください、チーフさん。みんな、わかったな! これからは、飲む時はここで飲むぞ!」
おお! と喜びにあふれた声が上がる。
丸く収まって良かった。
次はこのお酒の銘柄もちゃんと聞いておこう。あの時は、気に入ったお客様がいたらその時に、と言われて教えてもらえなかったんだよな。
笑いながら工藤さんに良い店を教えてくれたな、と肩を叩く課長を眺めて、あとで酒屋さんに連絡をすることを心に誓った。




