乾杯の礼儀
「いらっしゃいませ、工藤さ、ま。今日もお仕事お疲れ様でした。どうぞ、テーブル席のご用意ができております。」
そう言って、テーブル席へご案内し、リザーブカードを下げる。
危ない、またいつもの癖でさん付けしてしまうところだった。
「ありがとう、チーフ。ごめん、一人遅れてくるらしい。大丈夫かな?」
「問題ございませんよ。百瀬くん、上着をクロークにお願いします。」
そう言って、おしぼりを持って来てくれた百瀬くんに引き継ぐ。今日もカウンターに座っていた安永様が、工藤さんの名前に反応した。
「あれ、工藤って……この間の?」
「ああ、そうでしたね。はい、先日お邪魔させていただいた、あの工藤様です。」
「そっか、ちょっとだけご挨拶してくるわ。」
そう言って立ち上がる。お連れ様に座る席を指示していた工藤さんに、安永様が声を掛ける。
「あの、すみません。工藤さん、というのは、貴方でよろしいですか?」
「はい、私が工藤ですが……貴方は?」
怪訝な顔で振り向く工藤さんに、安永様が明るい声で続ける。
「ああ、良かったお会いできて。あの、先日お宅にお邪魔させていただきました、安永と申します。先日は申し訳ありません、急にお伺いして、お食事までいただいてしまって。」
「ああ、貴方が! 何度かお見かけしてましたね、私が工藤です!」
そう言って、工藤さんが片手を差し出して笑う。
握手を交わしながら、周りに聞こえないような小さな声で、二人で話をして――時折り、二人の目がオレを見ていたような気がした。
工藤さんが名刺に何かを書いて安永様に渡して、
「何かありましたら、いつでもご連絡ください! これ、電話番号です。仕事柄私も動けないことも多くて。よろしくお願いします!」
「ありがとう、工藤さん! って、刑事さん! ってことは、皆さんも?」
工藤さんが慌てて口元に人差し指を当てているが、今いらっしゃるのは三組のお客様……常連の方ばかりだ。
医師の市川様と岸本様。カウンターの奥で、スーズ・ギムレットを傾けている。すっかりスーズ・ギムレットはお気に入りになったらしく、今日のようにキャンドルがなくても頼んでくださることが多い。
そして三井夫妻、安永様。
外で騒ぐような方々ではないはずだ。
「おっと、これは失礼! ありがとう、何かあれば連絡させてもらいますよ!」
お騒がせしました、と片手で謝りながら、安永様が席に戻って来た。
「ねぇねぇ、あちらのお客様、刑事さんって、ホント?」
三井様だ。しまった、そうか忘れてた。
「智也様、ダメですよ? 他のお客様のお仕事を詮索されては。皆様プライベートなんですからね。」
「ちぇ、かったいなぁ、チーフは!」
「もう、トモくん! チーフを困らせちゃダメだよ!」
三井様はご夫婦共に地元のテレビ制作会社の方だ。
取材したくなる気持ちもわかる。まして先週のニュースは、平和なはずのこの街で起きた事件として、話題にもなった。
それでも、バーのルールは守ってもらわなければ。
幸い、清楓様がお止めくださり、それ以上は食い付くこともなかった。
「とりあえず、皆さん乾杯はビールで良いかな?」
そんな声が聴こえる。
呼ばれる前に、テーブル席の方へプレッシャーにならないように近付く。
工藤さんが皆さんにオーダーを確認し終えたのを確認して、テーブルの脇に立った。
「お決まりでしょうか?」
「おお、ちょうど良いタイミング! ああ、最初はみんなビールで!」
「かしこまりました。」
オーダーを受け、ビアグラスを七客。最初に出てくるのは管に入ってた分だ。酸化が出ているため、必ず捨てる。
奥に倒して泡立たないように注ぎ、手前に倒して泡を乗せる。液体と泡の比率は七対三。六杯のビールを注いだ後、最初に注いだビアグラスに、泡を足すのを忘れない。
トレイに乗せ、テーブル席へ。
「お待たせしました。ビールでございます。」
トレイをテーブルに乗せ、コースターを差し出しながらグラスを置いていく。コースターは七つ、遅れていらっしゃるお客様の分も並べておく。
「どうぞごゆっくり。」
小さく頭を下げ、席を離れる。途端に、明るい声で乾杯の声が響く。
振り返ろうとした時に、テーブルの奥の方から抑えた声が嗜める。
「うるさいぞ、工藤。こういう店では、もう少し声を抑えるもんだ。」
「すっ、すみません、課長……。」
「まぁまぁ、課長。やっと一つ、とはいえ、ずっと追ってたヤマが片付いたんですから。今日は大目に見ましょ!」
「そうは言ってもな、係長。相手は組織的に動いてるんだ。全貌の解明にはまだまだ時間がかかる。そんな時に、こんな――」
「まぁまぁ! 今日は硬いことはやめましょ! 終わり終わり! さ、みんな飲むぞ! 乾杯!」
「「「「乾杯っ!」」」」
「……乾杯。」
チン、と小さくグラスが鳴り、喉を鳴らす声が聴こえた。
誰にも見えない場所で、この街に暮らす人たちを守るために働いている刑事さん達。
今日くらいは、オレも大目に見ようか。
そう考えて、カウンターに戻る……途中で、ふと思い立って、百瀬くんに声を掛ける。
「百瀬くん、ごめん! あちらに、ジャーキーとナッツだけ出してあげて! 三人前ずつ!」
「あ、わかりました! すぐ準備します!」
あまり感謝されることはないかも知れない、刑事という職業。今日くらいは、一市民からの御礼を形にしても良いだろう。
あくまでも、団体客へのサービスだし、ここを選んでくれた工藤さんの顔も立つ。
もちろん、気に入ってもらって、また使ってもらえれば、という下心だって大いにある。
すぐに百瀬くんが、二枚ずつの皿に乗せたジャーキーとナッツを手に戻って来る。
「ありがとう! 持ってくね。」
そう言って受け取って、そのままテーブルに向かう。
「ご歓談中失礼いたします。本日は皆様、当バーのご利用ありがとうございます。こちら、私どもからでございます。お召し上がりくださいませ。」
そう言って、皿を置いていく。グラスを確認することも、もちろん忘れない。
「お! ありがとう、チーフ!」
「いえいえ、このくらい。次はどうなさいますか?」
見れば課長と呼ばれていたお客様のグラスはもうほとんど残っていない。他の方も、間も無くだろう。
今のうちに次を、と思ったら、課長の顔が少し渋い。置いてあったメニューを見つめながら、悩んでいた。
「課長、さすがにこういうお店で日本酒はないんじゃないですかね?」
課長は日本酒派なのか。だけど、それならちょうど試してみて欲しい一本があった。
「ありますよ? 日本酒。瓶ごとになってしまうのですが、良いのが。」
課長の顔が、跳ね上がるみたいにしてオレを見る。
「あるのか! 日本酒!」
「はい、是非お冷で楽しんでいただきたい、特別なのが、一本。」
「そ、それをくれ! いくらだ!?」
「うーん……。」
値付けか……そういや考えてなかった。アレ、難しいんだよな。
悩むオレを見て、係長の顔がサーッと青褪める。
「さすがに、あんまり高いのは……経費で落ちない、かな、って……。」
「いえ、ちょっと値付けに困るんですよね。市販品ではないので。」
これは特別品だ。たまたま手に入っただけ。日本酒がお好きな方に飲んでいただきたい、と思って置いていたが、中々いらっしゃらなかった。
ワインセラーに保管はしてあったが、もう出してしまいたいと思っていたところだった。
「そんな、市販品じゃない、なんて……さすがに、それ経費では……。」
係長の顔が、さらに青くなる。工藤さんも不安そうにオレを見ていた。
……課長の目だけがギラギラと輝いていた。
その時、マスターに言われた言葉を思い出した。
――本当の酒、というのはな。飲むべき時、飲むべき相手。そいつをテメェで選ぶもんさ。
そうだ。
だとしたら、あの酒は今、飲まれたがっている。そんな気がした。
「お値段は後で考えますが……法外なお値段にすることはございませんので、ご安心ください。とりあえず、お持ちしますね。」
どういうことだ? どんな酒が、と皆様が顔を見合わせる中、そのままカウンターへ戻る。
「百瀬くん、白ワイン用のグラス、三つくらい持っていってもらえますか。」
それを頼んでから、バックヤードのワインセラーを開ける。一番下に眠る、ラベルも何もない、透明な瓶。それを引っ張り出して、ダウンライトに透かす。
わずかに薄く、淡い黄金色――光の具合によっては、緑にも見える。
大丈夫そうだ。確認を終え、リキュールグラスを手にもう一度テーブルへ戻る。
「お待たせしました。念のため、テイスティングだけさせていただきます。」
そう伝え、キャップを捻る。
キュポン、と音を立てて、封が開き、そのままリキュールグラスに注ぐ。三分目、一口程度を注いでキャップを嵌め、グラスの脚を持って軽く揺らす。
それだけで、空気に触れて花開いた日本酒から、林檎のような爽やかな香りが辺りに漂う。
「なんか、スゲェいい香り……これ、ホントに日本酒!?」
工藤さんが驚きの声を上げる。
「はい、正真正銘日本酒ですよ。」
短くそう返し、唇に寄せて香りを嗅ぎ、口に含んで――コクリ、と小さな音を立てて飲み干す。
「うん、前にいただいた時と同じ。状態に問題ございませんね。お注ぎ致します。」
そう伝えて、白ワイン用のグラスに注ぐ。波打ちながら注がれていく日本酒を、六対の瞳が見つめる。
瓶を持ち上げ、グラスの脚を持って課長のコースターに重ねる。
「どうぞ、お試しくださいませ。」




