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カラヴァッジョとカウンター

絵を描いている時には、ハイになる。

描き続けていると、息が詰まって窒息しそうになるほどに。


描かれた線が、もっと描け、と呼び掛けてくる。生命を吹き込め、と命令してくる。


オレが絵にハマった原点は、ハッキリしていた。


十歳になったかどうかの幼い頃に観た、『キリストの埋葬』。その圧倒的なリアリティとドラマティックな構図。


衝撃だった。


美術館の薄暗い一室、作品が放つ存在感があまりに強烈で、周囲の喧騒や、他の作品の色彩すら、一瞬で消滅したように感じた。


ただの絵画ではなく、目の前で今まさに起こっている事件。


キアロスクーロと呼ばれる、明暗――光と影を極端に強調した技法。

キャンバスの半分以上が暗闇に覆われ、その中にすべてを曝け出すような眩い光が差し込む。

その光が当たる部分だけ、人間の持つ生々しい肉体、苦悩、そして真実が露呈される。


神々しい存在ですら、まるで路上の酔っぱらいのような人間的な醜さで描いた天才。


カラヴァッジョは光を、真実の刃として用いた。

光は、美しさだけでなく、罪や汚辱をも容赦なく照らし出す。


その苛烈さが、生きることの熱量を感じさせた。


まだ幼い日に感じたその熱は、サッカーという熱に上書きされた後も、心の奥底で消えることはなかった。

 

そして、オレは、バーテンダーという仕事を始めた後――バーカウンターの中に、カラヴァッジョの世界観を見出すことが度々あった。

店内のダウンライトが、カウンターに座るお客様の目元や口元だけを劇的に照らす。


それはまるで、暗闇の中から浮かび上がるカラヴァッジョの人物のように、一瞬でその人の本心、あるいは秘密を露呈させる。


カクテルグラスの中の透明な液体が、反射する光の破片を、カウンターの上に乱暴に投げつける。

氷が溶けることで、その光の破片はゆっくりと形を変え、影を長く伸ばしていく。


カクテルを静かにカウンターに置くとき、グラスの横にチェイサーの水を添えるとき。

お客様の表情に光がどう当たり、どこに影が落ちるか。

オレは、その光と影の演出によって、お客様の"物語"を読み取っている。


お客様の表情が光で強調され、影に悲しみや秘密が隠れる――バーのカウンター自体が、オレの動くキアロスクーロのキャンバス。


オレは、毎夜、カウンターという舞台でお客様の光と影を見つめ、彼らが背負うドラマティックな人生を、たった一杯のカクテルで切り取っている。

この仕事は、オレの芸術を実践する場でもあるのだ。


だが、まだカラヴァッジョには遠い。

光と影の芸術には、まだ浅い。


だから、オレは描く。



さっき、顔馴染みのモデルさんに頼んだのは、描きたい絵のポージングだった。

解剖学の授業を思い出し、骨を描き、筋肉を乗せ、皮膚を貼り付ける。内臓の一つ一つまでをも写し取る。

一枚の布すら纏わぬ、神々しい肉体。


筋肉の動きを知り、皮膚の捩れを見て、肉体を描く。息をするのを忘れる。

フッ、フッ、と時折短い息が漏れ、意識が深く潜っていく。

コンテの線を布で擦り、影をぼかす。


アラームが鳴った。


腕を下ろし、息を全部吐き出す。


モデルさんに声を掛けてお礼を伝える。

その時だった。


「はい、お疲れさん。」


気の抜けたような声がデッサンスペースに響き渡る。


「お疲れ様です!」


教授だった。

近くの学生に挨拶がてらのデッサンの講評をしていた。短く、端的に。それでいて、芯を突いた指導。


教授の顔がオレを見て、止まる。


「お前……。」


驚いたように固まったまま、次の言葉が詰まる。


「痩せ、たな……。」


またこれか……。5kgくらいは痩せた、と思う。けど、そのくらい。まだちょっと痩せ気味、程度のはずだ。

体重計なんてものは家にはないから、5kgってのも勘だけどさ。


「気のせいですよ! すみません、ご無沙汰しちゃって。これからは、顔出せる時は顔出しますんで。」


「何かあれば相談するんだぞ。今度、時間取れる時に飯に行こう。」


「ありがとうございます、教授。そう、ですね。今日はこの後授業出たらバイトなんで、また別の日にでも誘ってください。」


オレは、バーテンダーの修行で得た完璧な笑顔を顔に貼り付けて、教授の誘いをやんわりと断る。


そのまま、アラームが鳴り最後のポージングが始まる。

よし、最後は一枚に全部を注ぎ込んでやる。


コンテを握る手を、クロッキー帳の上に走らせる。

教授は、しばらくオレを見つめたまま、首を振って他の学生の指導に回る。


描き終えた後は、午後の授業の前にステアの練習をしたくて、一人になろうと部室棟へ向かった。

オレを探している後輩がいたことなど、気付きもしないで。

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