かけうどんの恋
久しぶりに、学校で先輩を見た。
最近は、少しずつ授業に出たり、アトリエに顔を出すとは聞いていたんだけど。
私もサークルの関係とか、学祭のこととか、一年の時に学校に来れない時期があったせいで足りない単位を取ったり、で忙しくしていた。
バイトの方も、ついこの間お店の改装が入って、オペレーションが少し変わった。
改装はそんな大掛かりなものじゃないけど、店内の仕切りを小さくして、見やすくなった。それに慣れるのに、慌ただしかったのもある。
この大学に入った時、私は落ちこぼれ、だった。
予備校には通っていたけど伸び悩んで、ようやく受かった大学。現役合格、というと聞こえはいいけど、他の人と見比べて、いつも落ち込んでいた。
そうしたら、ご飯を食べるのがつらくなっちゃって。気が付いた時には、拒食症寸前だったのかも知れない。
みんなが、私のことを心配してくれた。それが、余計につらかった。
そんな時だった。
私の前に、先輩が現れたのは。
第一印象は、良く笑う人。
でも、楽しそう、っていうのとは違くて、なんていうか――作り物みたいな笑顔。それが、不気味だった。
顔が整っていたから余計に、そう――人形みたい。
先輩は、大学でも少し浮いてた。
聞いたら、予備校にも通わず、専門的な勉強も一切せず、才能だけで美大という高いハードルに現役合格した、正真正銘の天才。
夜の仕事をしてるなんて噂もあった。
評判は最悪。
才能を鼻に掛けた、嫌な奴。他人の作品を平気でこき下ろす、人格破綻者。
でも、その評価は――先輩が私たちのデッサンに混じった時に、全部ひっくり返った。
五分ワンポーズ、その間に先輩は二枚は描き上げてしまう。時には三枚。
並大抵のスピードじゃない。
なのに、横目で覗き見たその線は……踊り出していた。
線が生きてるみたいに、一見間違った線が、見る見る内に躍動感に変わっていく。
二十分のセットを二つ、それが終わると先輩はフラリと出て行ってしまった。
飽きたのかな? 自分のクロッキー帳もそのままにして、邪魔だな。そんなふうに思っていると、そのポージングの時間が終わったと同時に戻ってくる。
そして、手に持った木炭で薄い線を入れながら、そこにいる学生の絵を指導していく。
煩わしそうにする人もいたけど、その指導は今まで受けたどんな指導よりも的確に見えた。
私の番になった。
先輩は、私の後ろに立って見ている。
何を言われるんだろう、そんなふうにドキドキしていたら。
「良い絵だね。描きたい気持ちがあふれてる。君は伸びるよ。」
そう言って、木炭を手に、私の絵に指導線を入れていく。
私に見えていなかった線が、私の絵を踊らせる。絵が、笑ってるみたいに見えた。
こんな人に、そう思おうとしたけど……絵は、嘘をつかなかった。
やがて、先輩に流されていた噂は、先輩を良く思わないその上の世代の先輩や、同級生が悪意を持って流していたことを知った。
彼が入っていたサッカーサークル、そして、何故か私の入っていたバドミントンのサークル。他にも、体育会系の、部長、副部長がアトリエに来て、その噂を流していた人たちに問い詰めていた。
先輩は、入学してすぐに、体育会系のサークルが機能不全になっていることを知って、サークル活動がやりやすくなるようにと組織化し、規約を整えて、学校の協力を得られるようにしたらしい。
そのことを、体育会系の人たちは恩義に感じて、姑息な噂を流していた人たちを懲らしめに来たと言っていた。
不思議な人だと思った。
でも、私には関係のない人。そう、思っていた。
ある日、絵を描いていた時に、貧血で倒れそうになった時。
助けてくれたのが先輩だった。
先輩はすぐに私を連れ出して、アトリエの前の椅子に座らせてスポーツドリンクを買って来てくれた。
「大丈夫?」
優しい目で、私をまっすぐに見つめて、手首を優しく握り脈を測る。
先輩の顔が間近にあって、握られた手首が熱を感じて――
「痩せたね。ちゃんと食べてる?」
先輩の声が私の鼓膜を震わせた時――私は、なんでかわからないけど泣いてしまった。
この人に言っても、わかるはずないのに。
天才になんて、わかるはず、ない。私の、下手くその苦しみなんて。
先輩は、何も言わずに跪いたまま、私の手を握ってくれていた。
ようやく泣き止むことができた時、先輩は私の手を取って、学食に連れて行ってくれて。
「ちょうどオレもご飯食べようかなって思ってたんだ。一緒に食べてくれる?」
そう言って、私の分も買ってくれて。
それからは、毎日昼の時間には私を探し出して、学食に連れ出してくれた。
いつも、先輩の奢りで。
「バイトしてるからね、このくらいは余裕あるんだ。だから、心配しないで大丈夫だよ。」
優しい、完璧な笑顔で私にそう言って、私には好きなものを選ばせておいて……先輩はいつも、かけうどん。これが好きなんだよ、七味の味が活きるよね。そんな、優しい嘘を吐いてまで。
そして、いつだって私が食べ終わるのを待ってくれる。
――好きにならずになんて、いられるはずがなかった。
自分の気持ちに気が付いてからは、先輩の背中をいつも探していた。
先輩と一緒にいる時間が、私に取っての宝物。
その頃には、悪い噂もなくなって、先輩に憧れる私の同級生の子もたくさんいて、独り占めしてるみたいで気分が良かった。
気が付いたら、普通にご飯も食べられるようになっていて、でも先輩はいつも私と一緒にご飯を食べてくれて。
このまま、付き合えるのかな、って期待してた。
そう、思ってたのに……。
先輩は、突然学校に来なくなった。
先輩のスペースは埃を被って、足を踏み入れる人もいない。
噂は、何も聞かなかった。
誰も知らない。
サークルの先輩に聞いても、サッカーサークルの人たちは口をつぐんで何も答えてくれないという。
一度、四戸、って言われてたサッカーサークルの先輩に聞いたことがあった。
去年の、秋が終わろうとしていた時だった。
専攻が違うのに、突然現れて、教授に何かを相談していた。
四戸さんは――悲しそうな目をして、顔を背けて。
「アイツは……今、ちゃんと……頑張ってるよ。」
それだけを、絞り出すように。肩を小さく震わせて……男の人が泣いているところを、初めて見た気がした。
それ以上、私は何も言えなくて。
私の恋は、言葉にする前に終わったんだと思った。
諦めよう、そう思った。
二ヶ月くらい前から、先輩の姿を学校で見た、という話が聞こえてきた。
背中を探したけど、会えないままで、ただの噂なのかな、って思っていた時に。
その先輩が、私のバイト先に来てくれた時は、めちゃくちゃ驚いた。
少し痩せて、でも、なんていうか……大人になってて。心が踊るのを、止められなかった。
相変わらずのとぼけた答えで、笑いそうになっちゃったけど。
一緒にいた人は、先輩よりも年上の人だと思う。
バイト先の人なのかな? って思ってたら、チーフ、なんて呼ばれてて、聞き耳立てようとしてたら――突然席を立って、帰るって言い出した。
何があったのかわからないけど、何も言えないまま背中を見送って、鈴木店長に問い詰めたら、店長も何が何だかわからない、って言ってて。
そしたら、お客さんの中に先輩のことを知ってるって人がいた。
隣の駅チカのお店で、バーテンダーをしていて、業界内では有名らしい。
バーテンダー。
先輩が、夜の仕事をしてる、って噂。
先輩が、学校に来れなくなった理由も、きっとそこにある。
その後からかな、鈴木店長の仕事が変わったのは。笑顔が柔らかくなって、お客様の話をよく聞くようになった。
なんて言うのかな、仕事に、芯ができたっていうか。どことなく、先輩を思わせるような目になってた。
いつか、先輩のお店に行ってみよう。
そう、思っていた矢先――今日、ついさっき。先輩が、突然私の前に現れた。
心臓が、口から飛び出るんじゃないかと思うくらいに脈を打って、この鼓動が先輩に聞こえちゃうんじゃないかと思った。
動揺が、線に出ていたのかも知れない。
耳元で、指導をされた時。
ダメダメな絵よりも、先輩の、囁くような声で話しかけられたことの嬉しさの方が強かった。
やっぱり、先輩はズルいと思った。
諦めよう、そう思ったのに、こんなの――。
先輩は、私の恩人。
そして、私の好きな人。
だから、無理をしてるのもわかった。
やつれて、あの時の私以上に、食べてないことも。
今度は、私が先輩を支える番。
どうやって学食に誘おうかな。
今は私だって、バイトしてるんだから。
今度は、私がかけうどんを食べる番だ。




