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アトリエ

デッサンのスタート時間には間に合ったようだった。

アトリエの、オレのスペースへ足早に向かう。


「あっ! 先輩!」


鈴木様のお店でアルバイトをしている、後輩の聖子ちゃんだった。


一際高い声に、視線が集中する。

描き始める前の、コンセントレーションを乱されたのか苛ついているようにも見えた。

この程度で集中力を切らして、当たり散らすなんて……。ひと睨みしてから、聖子ちゃんに笑顔で返事をする。


「久しぶり、元気かい?」


「もちろんですよ! 先輩は……痩せました?」


心臓がひとつ、その鼓動を跳ね上げた。

さっきも課長にも似たようなことを言われた。大学に戻り、再び絵筆を握るようになったことで、絵の具や筆などの画材代が逼迫し始めていた。

足りなくなった分は――食費を削るしかなかった。


元々、一日一食だった。ここ最近は、少しずつ食べる間隔が伸びていって、三日に一食。


前に食べたのは、一昨日。多分、次に食べるのは明日になるだろう。


聖子ちゃんに向かって、作り笑いで誤魔化す。


「あぁ、ちょっと自宅で取り掛かってる作品があって。そっちに根詰めてて、寝不足だからそう見えるだけじゃないかな? 体重は変わってないから大丈夫だよ。」


もちろん、嘘だ。この一ヶ月で、5kgは痩せたと思う。


「……本当、ですか?」


――少しだけ、空気が張り詰める。

その空気に蓋をするように、笑う。笑顔なら、カウンターに立つために散々練習してきた。


「本当だって! 心配し過ぎだよ。」


まだ、何かを言いたそうにしている。


「さあ、もうすぐデッサンだろ? モデルさん、誰だろうな? オレも準備しないと。」


そう言い残して、今度こそ自分のスペースに向かう。


「――嘘つき。」


その言葉は、聞こえなかったフリをした。



スペースは、この間来た時と変わらない。与えられたスペースは、何があっても他の者は触らない。

それが、このアトリエのルールだ。


壁際には、まだ手を付けていない、大きなキャンバス。


このキャンバス地は、四戸さんとトシ先輩が卒業の時に、余ったから使えよ、と言ってくれた物だ。

ほとんど新品のロールの太さが、二人の下手な嘘を物語っていた。

画材代を出すことにも苦心していたオレは、その嘘をありがたく受け取らせてもらった。


本当に、あの人達は、器がデカい。その無償の優しさに、オレはまた、負い目を感じる。

感謝の念を覚えると同時に、これから描く時に何を余計な事を、と自嘲する。


クロッキー帳と、コンテを、三本。それと、練り消しと、擦るための布。木炭は今日は使わない。


両手に持ちながら、デッサンスペースに入る。思い思いの位置に、皆がイーゼルを立てていた。


クロッキー帳を脇に抱え、オレも開いている場所を見つけてイーゼルを立て、クロッキー帳を広げる。


モデルさんがスペースに入って来た。何度か見たことのあるモデルさんだった。

続けて、教授の助手がストップウォッチを手に、皆を見回して、オレに目を止める。息を呑むのが見えた。

教授はデッサンの時は必ず遅れてくる。変わってないな。


いいから、早くしてくれ――もう、オレの手は描きたがってるんだ。


「それでは、二十分ポーズ。五分ごとに、ポーズを切り替えて四回。五分休憩、それを四セット。ラストは二十分をワンポーズ。では、始め。」


ピ、という電子音が小さく鳴る。


モデルが一糸纏わぬ姿となり、身体を捻る。

うん、セルライトも綺麗に出て、動きのある良いポーズだ。


クロッキーとモデルの距離を測る。

このポーズなら、頭を少しだけ切って、膝下で切った方がダイナミズムが出るな。


手にしたコンテを、クロッキー帳に走らせる。

迷いはない。一本線が入れば、あとは速い。


次々に紙の上に線が走る。

あっという間に、線が形を作り、人体が浮かび上がる。最後に、目と鼻と唇を描き入れ――ここまでで、二分。


クロッキーを捲り、新しい紙を出し、他の学生の視線と集中を邪魔しないように気を付けながらイーゼルごと移動する。


スペースに辿り着き、もう一度距離を測る。

線が走る、今度はもう少し陰影まで描き入れ、立体感を出す。


アラームが鳴る。

オレのクロッキー帳には、肩甲骨の窪みまでが描かれていた。


次のポーズ。

ポージングを変えるモデルを尻目に、クロッキーを捲る。

もう少しスピードを上げるか。

距離を測ることすらしない。いきなり線を入れ、その線を軸に描き込んでいく。

練り消しは、オレはほとんど使わない――線を迷うことがないから。


休憩を告げるアラームが鳴った。

そのセットでは、十枚のクロッキーを描き上げていた。


聖子ちゃんが申し訳なさそうな表情を浮かべながら近付いてくる。


「あの、先輩、さっきは……。」


「どうしたの。講評かい?」


休憩は五分……モデルの体力もあるから仕方ないとはいえ、長いな。

集中力を切らしたくない。今は、絵のことだけを考えていたい。

そんな思いが声に乗ったのだろうか、聖子ちゃんが固まり、悲しそうな顔をして――無理矢理に笑って、


「久しぶりに、先輩の絵見せてください! 何枚描いたんですか? ……って、十枚!?」


クロッキー帳を捲りながら、目を見開く。


「……ハァ。やっぱり、才能ある人は違うなぁ……。」


「そんなことないさ。描き続ければ、このくらい誰だって」


「学校に来もしない先輩に言われても、説得力ないですって!」


「……うっ……! いや、まあ、……。」


返答に困るな……。


「とりあえず、次のポーズ描いたら、オレ一回休憩して、その次のセットはまた指導回るからさ。見てあげるよ。」


「本当ですか? お願いします!」


機嫌、直ったかな?

教授はいつも、最後のポーズが始まる直前に来る。助手が学生への指導を、自分からすることはない。

オレがデッサンに出る時は、それが同級生の授業だろうが、先輩の授業だろうが変わることはない。二セット描いて、ワンポーズは休んで、次のポーズは気分転換がてらにアドバイスに回り、最後のポーズを全力で一枚。


アドバイスは一年の時、他の同級生に求められた時にしていたのを教授から気に入られたのがきっかけだった。

そもそも講評を客観的に行うこと自体、お互いのためにもなるからと、積極的にやってくれと言われていた。

相手にどう思われようが気にしないでハッキリと伝えるようにしている――もちろん、言葉は柔らかく、だけど。

絵を描くためにここにいるのなら、向上心を持つべきだと思っている。それで反発心を持つなら、そこで終わりだ。


次のセットでは、スピードを上げることを意識して十二枚のクロッキーを仕上げた。


ワンポーズ分を丸々休む――サボりじゃない。

自分のスペースの小さな椅子に座り、キャンバスの前で目を閉じる。

集中するために、随分とボロボロになったヘッドホンを着け、小さなMDの再生ボタンを押す。

レニー・クラヴィッツが、『Heaven Help』を歌い上げる声が耳を支配する。

それだけで外界から世界を切り離し、今走らせていた線を思い出してイメージの中のキャンバスに写していく。

色を乗せ、影を付け、背景を組み立てる。

光源を照らし、どうすれば作品に昇華できるかを、頭の中だけで考えていく。


こうやって、ヒートアップした頭を冷ます。

指導に入るのも同じ理由だ。


言葉にするために考えることで、頭が冷える。

でき上がった二十二枚のクロッキーを、すべてキャンバスに走らせた頃、曲の切れ目に長いアラームが聞こえた。


息を吐き出して、細い木炭を手に取る。

指導に入る時は、その人の線を極力邪魔しないように、薄い木炭を使う。


モデルさんが毛布に包まって暖を取っていた。デッサンスペースに戻ってきたオレを見て、手を振る。


「あれ、久しぶりじゃない! やけに動いてる子がいると思ったら、キミかぁ! どうしちゃったの、全然顔見なかったけど。」


なんか、今日はやけにみんなに聞かれる日だな……。


「いやぁ、ついついバイトが楽しくて。そろそろ留年の危機なんで、戻ってきましたよ。」


「そっかぁ、無理しちゃダメだよ? 次はまた教えて回るの?」


「はい、いつも通りですね! デッサンの時のルーティンになっちゃってて。」


「そっか、頑張ってね! あ、ポージング、何かリクエストある?」


「そうだなぁ、お任せでいつも良いポーズしてくれてるから良いんですが……。そうだ、椅子に座って、ほんの少し上体捻って、ってポーズできます?」


「こんな感じ?」


「あ、そんなに捻らなくて大丈夫です、そうそう、そのくらい! このポーズ、次のポージングのラストにお願いできます? この体勢だと、二十分はキツいので。」


「いいよ、手は降ろしてていいの?」


「手は、こんなふうに右手で受け止めるみたいにできますか? 左手は……こんな感じで、はい、そんな感じでお願いします!」


「わかったよ。じゃあ、このポーズのラストにね!」


「ありがとうございます、お願いします!」


四回目のポージングが始まるアラームが鳴る。

思い思いの場所に動いて、イーゼルを構える学生の間を縫いながら、それぞれのクロッキーを眺める。


「線が短いな。最初の一本は、全体を決める軸になる。思い切って、力強く引いたほうが引き締まるよ。」


「クロッキーに近過ぎる。もっと離れて、そう、紙面とモデルが両方視界に入る体勢をキープして。」


指導は一言、二言。長居はしない。聞かれた時だけ言葉を重ねる。


聖子ちゃんがオレをチラ見しながら線を走らせている。見て欲しいのか。


これは――


「何を悩んでるの? 迷い線が出てる。」


肩が跳ねる。


「間違えた線なんてない。もっと線を活かしてごらん。」


そう言いながら、迷い線を消すように木炭で重ね、肩の位置を合わせる。

重なって、揺れた線が味になっていく。


「ここにこうやって、面にした木炭で軽く陰影を乗せれば……ほら、立体になる。さっきの線があったからだ。」


自信をなくした時、絵には余計な線が走る。それは勢いを殺し、線が迷走する。


「自信を持て、とは言わない。今は迷う時だと思う。けど、思い切って線を走らせてごらん。それだけで、この絵は良くなる。」


「は、はい! ありがとうございます!」


アラームが鳴る。次のポーズが始まる。

あと、十分。その間に、できる限りみんなの絵を見てみよう。

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