王様という幻影
唇を噛み締める彼に、何もしてあげられないという無力感にさいなまれていた時だった。
蝶番を軋ませながら、ドアがゆっくりと開かれてゆく。
キョロキョロと店内を見渡しながら中に入ってきたのは――昨日、マティーニを出されそうになっていた、あのお客様だった。
「「いらっしゃいませ。」」
カウンターの向こうに座る彼の目が、そのお客様を見つけた瞬間、驚愕と……もう一度、怯えの色を浮かべて、顔を背けるように伏せる。
オドオドと、どこか迷うように、そのお客様がカウンターの前で座る席を探している。
「大丈夫ですよ、お好きな席にお掛けください。」
ホッとしたような、素朴な笑みを浮かべながら真ん中の席に腰掛ける。
「あ、あの……昨日は、どうも。」
「いえ、こちらこそお騒がせして申し訳ありませんでし――」
「すみませんでした!!」
端の席に座っていたはずの彼だった。
立ち上がり、近くまで来て、深く頭を下げて謝罪の言葉を述べる。
不器用なのかも知れないけれど、精一杯の誠意は伝わってくる。
「あ、えと……? あ、も、もしかして、昨日の……?」
「はい。昨日の私は……貴方を全く見ていませんでした。貴方が何を飲みたいのか、お酒の経験があるのか、どのくらいのお酒なら飲めるのか――」
謝られているお客様は、何が何だかわからないまま。
それでも、視線を外すことはなかった。
「貴方の好みも、体調も、不安も。全部、見ようともせずに、私のエゴだけを押し付けてしまいました! 本当に、申し訳ありませんでした!」
「あ、いや、あの、マティーニ、って言うんですか?飲もうとしたんですけど、臭いし、エグ味がすごくて。全然、飲めなくて……キツかったです……。」
当たり前だ。
マティーニを美味しいと感じられる頃には、いっぱしの酒呑みになっている。余程の腕があったとしても、酒に慣れていないお客様に美味いと言わせることは不可能に近い。
だけど、そんなことは知らないお客様からしたら関係ないだろう。見る見るうちに、お客様の顔が下を向いていく。
だから、つい口を挟んでしまった。
「いえ、それが当たり前ですよ。マティーニは、"美味しくない"んです。」
出された酒の味もわからない、と落ち込んで俯いていたお客様の顔が、跳ねるようにオレを見る。
頭を下げていた、バーテンダーも驚いてオレを見ていた。
その表情は、驚愕の色に染められながらも救いの言葉に出会ったような顔だった。
「えっ、でも、カクテルの王様、だって……。」
「そうだ、レシピブックには確かにそう書いてあった! 王様、というくらいなんだ、美味しくないはずが!」
「はい、確かにマティーニはカクテルの王様、と呼ばれています。それは間違いありません。」
ほとんどのレシピブックにも、そのように記載されている。
それは事実だ。
だけど。
「ですが、マティーニのアルコール度数は低くても三十度を超えます。そもそもが飲める人が限られたカクテル、なんです。そんな人でも、マティーニを美味しい、と思えるようになるのには時間がかかる――だからこそ王様、と呼ばれているんだと思います。」
「そんなに強いんだ……! ボクはまだ、そんなお酒は飲んだことないや……。」
カウンターの向こうに立つバーテンダーも、目を見開く。
「美味しいと感じるのに時間がかかる、カクテル……! そんなこと、考えたこともなかった……!」
「それは何も恥ずかしいことではないですよ。誰しもが初めて、ということはございますから。知らなかったのなら、知っていけば良いだけです。」
二人の顔を交互に見て、笑う。
「一杯一杯のグラスを積み重ねて、お客様自身のお好み、楽しみ方をこれから知っていけば良いんです。バーテンダーは、そのお手伝いをするためにいるのですから。」
その言葉に、どこか自分がここにいても良いのか、という疑問が解けてくれたのだろう。
心からの笑顔を浮かべて、声を弾ませながら聞いてくれた。
「ありがとう……! ねぇ、じゃあ、バーテンダーさんなら、ボクに何を飲ませてくれますか?」
「そうですね。では、まずは昨日の一杯の分、ということも込めて私から。非常にスタンダードなカクテルですが、ジンフィズというカクテルがあります。」
ゴードンのボトルを手に取り、お客様の前に置く。
チェット・ベイカーの吹く『Just Friends』が響いて、ダウンライトの光と混ざり合って店内を包んでいく。
「こちらをベースにしながら、もっと甘い方が良いとか、もっとフルーティーな方が良いとか。一緒にお好みを探して行きましょうか。」
オレとお客様の会話を、どこか清々しい表情を浮かべながら見ていた彼の顔には――晴れやかな笑顔があふれていた。
その後は、バーテンダーの先輩として、というと偉そうだけど。
オレのこれまでの失敗談を語ったりしながら、穏やかに時間は過ぎて行った。
年齢を聞かれて答えた後、めちゃくちゃに驚かれて、オレが落ち込んだりもしたけど。
お客様も、彼の立場を聞いて、じゃあ、今度は僕の好みを見つける手伝いをしてくださいよ、なんて言ってくれて、自然体でバーという空間を楽しんでくれていた。
帰る頃には、二人はすっかり打ち解け合い、肩を組んで笑うようになっていた。
わだかまりもなくなり、無事に解決して良かった。
そう、安心していたのだが――この話は、思わぬ展開を見せることになる。




