本当の姿
翌日。
店を開けるとほぼ時を同じくして、蝶番を軋ませながら店に入って来たのは――
昨日の、バーテンダーだった。
オレの目の前の席――奥の端の席に腰を掛け、目に静かに怒りの火を燃やしているのが見える。
だけど。
なんだろう、少しだけ、違和感を覚える。
「やはり、こちらでしたか。お客様から店の名前を聞いて、ここの方だったのかと。お噂は耳にしています、"ギムレットの王"。――いや、"バーテンダー潰し"、とお呼びした方が良いですか?」
空気が少しだけ冷たくなるのを感じる。
百瀬くんがお客様とオレの顔を交互に見ながらおしぼりを渡していた。
「あれですか、昨日はウチの店に難癖を付けに来たんですか? 姑息なことをするんですね、オーセンティック・バーの方というのは。そんなにウチの店に客を取られて悔しかったんですか?」
威勢のいい言葉とは裏腹に、視線はまっすぐにオレを見つめようとしながらも、揺れていた。
カウンターの上に置かれた拳が、小さく震えている。
なんとなく、このバーテンダーが迷っているように感じた。
「そのように感じさせてしまったのであれば大変申し訳ございません。そのような意図でお伺いした訳では決して……」
「なら、なんでだよ! アンタ、この辺では有名らしいじゃないかよ! あの後は散々だったんだ、何したんだって色んな客にも、バイトにも聞かれて! オレが何したってんだよ! 何なんだよ、もう……訳わかんねえよ!」
わからない。
それが、迷いの答えだったのだろうか。
この人には――迷った時に、ちゃんと導いてくれる人が。
オレにとってのマスターのような人が、いなかったような気がした。
間違いを、間違いだとハッキリ言ってくれる人が。
レシピを教えてくれる人はいたかも知れない。
だけど、バーテンダーとしての背中を、見せてくれる人が。
バーテンダーの、本当の魂を教えてくれる人が。
いなかったのかも知れない。
だから、伝えなければならないと思った。
「貴方には……師匠と呼べる方がいらっしゃいますか?」
明らかに、その瞳には狼狽の色が浮かぶ。
「な……なんで、だよ! それが何か関係あるのかよ!」
その叫びが、答えだった。
ダイニングバーは運営コストが高い。
まず、テーブル席を数多く用意しなければならない。座席面積は増え、それに従ってフロアの従業員も必要になる。フードメニューも取り揃えなければならないから、自然と厨房設備も大掛かりになり、厨房スタッフも必要だ。
オーセンティックバーはバックバーとカウンターさえあれば、最低限の設備でやっていける。
厨房設備もないところもあるくらいだ。
結果的に、オーセンティックバーは個人経営がほとんどなのに対して、ダイニングバーは法人資本で経営されることが多くなる。
法人資本ということは、当然そこで働く人は会社員だ。
師弟関係で繋がる、ということが難しくなる。
マニュアルはあっても、師匠はいない。
きっと、会社から言われて、マニュアルを頼りに。悩みながらも、自分の正解を探していたのだろう。
――誰にも教えてもらう機会すらないままに。
だから、彼はカクテルの王、という言葉に縋った。自分の正解がわからないから。
これなら、間違いがないのだろうと、正解を酒に預けてしまった。
「貴方が、見えていなかったものは。バーテンダーの本当の姿、なんだと思います。」
再び、彼の瞳が揺れる。
「バーテンダーの……本当の、姿……?」
彼は逃げなかった。
憤り、迷い――それでも、何か答えがあるんじゃないかと、オレのところに来てくれたんだ。
その覚悟があるなら、彼はきっといいバーテンダーになれる。
「はい……改めて、昨日は申し訳ありませんでした。本当に、そのような意図はありませんでした。ただ――」
彼の瞳がオレを見てくれるのがわかる。
「昨日の貴方は、お客様を見ていなかった。」
彼の顔が驚愕に目を見開く。
「貴方が、誰の背中も見せてもらうこともなく、先を行くための指針もなく。それでも、必死に踏ん張って来たこと。それは、わかります。」
赤く、充血した目が。
彼の悔しさと、真剣に向き合っているからこそ、の苦悩を教えてくれていた。
「まずは、昨日のお詫びに。こちらは私から。」
そう言って、冷凍庫からビーフィーター・ドライ・ジンを取り出す。
霜の降りたボトルの冷たさが、握った掌の熱を冷ましてくれる。
タンブラーグラスに氷を組み、それだけでステアする。
バースプーンで氷を抑えて、プレステアで出たわずかな水を捨てる。
ビーフィーター・ドライ・ジンを45ml、静かに注ぎ、氷に馴染ませるように少しだけステアする。
バースプーンを持ち替え、フォーク部分にカットライムを刺し、軽く搾り入れる。
トニック・ウォーターの蓋を開け、ゆっくりと――炭酸が抜けないように、氷に滑らせるように注ぐ。
最後に、もう一度バースプーンを挿し入れ、氷を持ち上げるように、二回。
コースターを目の前に置き、重ねるようにジン・トニックのグラスを置く。
「ジン・トニックです。どうぞ、ごゆっくりお飲みください。」
「なん……で、ジン・トニックなんか、」
「貴方が誰であろうと。カウンターに座られたからには、お客様です。だとしたら。この時間なら、まだお食事はされてないのではないかと思いました。」
「食、事……?」
はい、と小さく頷いて続ける。
「そして――貴方は、きっと色々考えたんだと思います。それこそ、眠ることもできずに。」
顔を伏せた。赤くなった目を、逸らすように。
グラスを持つ手が、僅かに揺れる。
「そこまで追い詰めてしまったのだとしたら、私の落ち度です。本当に、申し訳ありませんでした。」
その手が……震え出すのが見えた。
「難しいカクテルを語る必要なんてないんです。ただ、お客様を見て、見て、見て。答えは、お客様の中にしかないのだから。」
マスターの説教を思い出す。もう、しばらく拳骨も喰らってないな……。
「これは、私の師匠から教えてもらった、バーテンダーにとって、一番の基本で。一番大切なこと、だと今でも思っています。」
「見て……。」
そうだ。
昨日は、オレも彼をちゃんと見れていなかった。そんな後悔が、小さく胸の中で棘になって。
だから、つい言ってしまった。
「お客様に出す全ての一杯が。私達、バーテンダーを名乗る者にとっては、お客様と向き合う姿勢を問い続けられる一杯です。それは、私達自身の考え方や、魂の在り方――どこまでバーテンダーたり得るか。その生き様を映し出す、鏡です。」
百瀬くんが、オレの言葉に背筋を伸ばす気配がした。
「バーテンダーというのは、お客様がしっかりと自宅に帰り、翌朝を快適に迎えることを約束して信頼を築いて来た――そういう先輩方の背中を見て、学んでいくものなんです。」
バーテンダーは、称号として名乗るもんじゃない。誓いの証なんだ。
「だから……師匠はいるか、と……。」
小さな声が、震えるように響く。
「はい。難しい一杯、なんて要らない。ただ、静かにお客様に寄り添う。バーテンダーにできることはそれだけです。"私達が取り扱うお酒は、時に薬にも毒にもなる"。だから、お客様を見なきゃいけない。」
カウンターに座る、彼の拳が白く染まる。
「時に失敗してもいい。道に迷っても良い。私達バーテンダーだって、人間なのだから。
ただ、お客様を見ない、ということは、」
彼の目だけじゃない。百瀬くんの目も、オレの背中を見ている。
「バーテンダーであろうとする自分を、裏切ることになる。」
悔しそうに、少しだけ唇を歪ませて、ジン・トニックを口にする。
「……ジン・トニックって……こんなに、苦かったっけ……。」
「貴方は、凄い。ちゃんと前に進もうとした。昨日、あんな態度を取ってしまった私と、話をしようとしてくれた。誰にでもできることじゃありません。
それは、貴方がきっと――」
やっと、この言葉を掛けることができた。
「バーテンダーであろうとしたからだ。」
今度こそ、彼の声が震え、上擦る。
「オレ……オレ、会社から言われて! バーテンダー、かっこいいなって、思ってたけど! 実際やってみたら上手く行かないことばっかで! だけど、オレなりに、頑張ってたんだよ! なのに、なのにッ!」
グラスを掴む両手に、小さな雫が落ちる。
「レシピ通りに作っても、どれだけ練習しても、上からはドリンクの売上が低い、低いって、それしか、数字しか見てもらえなくて! だから、焦って、知ったかぶりしてたんだ、オレが悪いんじゃない、酒の味がわからない、客が悪いんだ、って!」
彼には……導いてくれる人がいなかったんだ。道の先を照らし、背中を見せてくれる人が。
オレには、彼を導くなんて大それたことはできないかも知れない。そんな資格もないかも知れない。
だけど。
背中を押してあげることくらいは、できるかも知れない。
「バーテンダーだって道に迷います。間違えることだって、ある。大切なのは……間違えた後、だと思います。間違えた後、それを自分が正す勇気を持てるかどうか。その勇気さえあれば、バーテンダーは――人は、何度でもやり直せる。」
濡れた瞳で、それでもまっすぐに。オレを見詰める視線は、もう一つ。
「バーテンダーはね。努力を誇っちゃいけない。それは当たり前だから。
自分の技術を誇示するために、お客様に供する一杯を作ってはいけない。それはただのエゴだから。」
これが。
「私たちは、バーテンダーなのだから。」
マスターから教えられた、バーテンダーとしての姿勢。
さっきまでとは違う、思いの籠った拳が、力強く握り締められるのが見える。
フゥー、と長い息を吐き出して、ジン・トニックを傾ける。
グラスを置き、涙を拭いてオレを見つめ返す彼の目には、今までとは違う力強さが確かに宿っているように見えた。
少しは、進む道を示すことができただろうか。
オレの言葉は――届いただろうか。




