方向音痴とツンデレと初心者
翌日。
陽が落ち、薄暗い夜の衣を街が纏い始める。
街灯の灯りが、駅前の小さなロータリーを精一杯に照らす。
18:54。
良かった、間に合った。
美大は卒業制作展に向けて、日曜日も開放していた。
オレは卒業は厳しいが――せっかく時間が取れたのだからと、アトリエに向かったついでに筆を手にしたのがまずかった。習作を重ねている内に夢中になっていた。
秋だというのに、夏を惜しむような暑さに、つい時間を勘違いしてしまったのもあった――いや、これは言い訳だな。
切符売り場の前で百瀬くんが、時計を気にしながら待っていた。
涼しげなシャツに袖を通した若い格好だ。
「ごめんごめん、つい夢中になっちゃって。ギリギリになっちゃったよ、待たせたね。」
ホッとしたようにオレを見る。
自然に笑う姿からは、昨日の失敗をちゃんと振り返ることができたことを物語っている。
「まだちょっと暑いですね。チーフは半袖は着ないんですか?」
「あ、ああ。持ってないんだ、半袖。」
しまったな、もう少しマシな格好にすれば良かったかな。まぁ、もう着替える余裕もないし、このままでいいか。
電車の切符を二枚、領収書ボタンも忘れない。横山マスターからは、研修みたいなもんだから領収書をもらってちゃんと経費で落とせ、と厳命されていた。
電光掲示板を見れば、三分後に電車が来るらしい。一枚を百瀬くんに手渡し、改札を潜り抜ける。
ホームに降りると同時に、電車が滑り込んできた。
「良かった、間に合って。今日のお店、どんなとこなんだろうね?」
「ダイニングバーに近い、テーブル席がメインみたいですよ。オープンから二ヶ月くらいですが、今も若い方で賑わってるようです。坂上さんに聞いたら、客層は全く違うからYの客入りには影響はないらしいですが。」
横山マスターの店、Yは今日伺う店と同じ街にある。
Yは大箱でフードも充実しているが、基本的にはオーセンティック・バーだ。
これから行くお店は、若い方で賑わってるってことも考えると、カジュアルなお店なのかも知れないな。
どんなお店なんだろうか。
横山マスターに言われたことを思い出して、一抹の不安が胸をよぎった。
一駅の時間はあっという間に過ぎ、改札を潜り抜けて駅前の雑踏の中。
「毎回来るたび思うけど、さ。やっぱり快速が停まるだけでも、人の乗り降りがこれだけ違うのはすごいよな。これなら、集客もある程度は見込めるだろうな。」
夜が落ちて、街のネオンが目にうるさい。百瀬くんの方が、この街の地理には詳しい。
「坂上さんから聞いたのだと、こっちですね。大きな通り沿いらしいので、すぐわかると思います。行きましょうか。」
「ああ、頼むよ。」
なお、大きな声では言えないが、オレは方向音痴なところがある。
特に人混みの多い街中では、それが顕著である。今のところ、多分誰にもバレてはいないけれど。
百瀬くんの背中を追いながら、辺りを見渡す。居酒屋、パブ、キャバクラ……お、ラーメン屋もある。
確かにこの通り沿いなら、夜中まで楽しめるだろうな。……なんでウチはあんな寂しい通りにあるんだろうか、なんてつい考えてしまう。まあ、家賃の問題だろうけど。
「あ、ありましたよ、チーフ……ってどこ見てんですか! そういうお店には行きませんよ!?」
「ああ、ごめんごめん! これだけの歓楽街なら家賃どのくらいかなとか考えちゃって、つい。」
「……チーフってホント、そういうとこ真面目ですよねぇ。木下さんにも見習って欲しいよ……。」
……木下さん、真面目そうだと思ってたけど、そうかぁ。
百瀬くんのツッコミづらい愚痴を、苦笑で流す。聞かなかったことにするのも、バーテンダーの技術の一つだ。
その間にも、一人の男性が目の前のドアの前で右往左往していた。立ち止まり、ドアに手を掛け……意を決したように一気に引き開ける。
ドアベルが鳴り、店内のBGMが街の雑踏に溶ける。聞いたことのある曲だな。確か……そうだ、ベン・フォールズ・ファイブの『Sports & Wine』。
噂通り、若いお客様。
どこか怯えるような仕草が、バーに慣れていないことを物語っていた。
吸い込まれるように店の中に足を踏み入れ、ドアが閉じられていく。
「ここかぁ。確かに入りやすそうだね。あ、ダイニングバーに近いって言ってたけど、しっかりカウンター席もあるんだね。じゃあ行ってみようか。」
「はい! あ、名刺は……?」
「いや、すぐには良いと思う。相手も身構えちゃったら、お邪魔になっちゃうかも知れないし。余裕があるようなら挨拶しようか。」
「わかりました!」
そう言って、ドアを開ける。
ドアベルが大きく鳴り、店の喧騒が二人を包む。ギターレスの特徴的なバンドサウンドが軽快に響いて、活気があふれていた。
「はい、いらっしゃい!」
オーセンティックなバーに慣れたオレからすると、幾分か居酒屋的な雰囲気を感じるような声がカウンターから聞こえてくる。
「二人なんですが、カウンターで良いですか?」
ロングスカートのメイド服をアレンジしたような制服姿の女性スタッフに声を掛け、座ろうとした時だった。
「あれ、先輩!」
横から飛んできた、聞き覚えのある声は――大学の、一年下の後輩の子だった。
下級生の授業に混じって、ヌードデッサンに参加した時に会ったことがある。あまり顔を合わせる機会のないオレにも、何だかんだと懐いてくれる子だった。
「久しぶりじゃないですか! 大学にも来ないのに、こんな飲み歩いてて良いんですか?」
「久しぶり。いやぁ、バイトが忙しくてさ。ここでバイトしてるの?」
制服を身に纏い、手にはメニューを持っていた。
「はい! どうですか? 可愛いでしょ!」
小さくスカートを持ち上げて、はにかむような表情を浮かべて聞かれる。
見れば、他のフロアのスタッフは女性ばかりで。みんなが揃いの制服姿でそれぞれに動いていた。
「そうだね……。制服としてはちょっと動きづらそうな気がするかなぁ。あと、サロン――エプロン、と言った方がいいかな、は白だと汚れがついた時に目立つ気はするけど。」
「もうっ! そういう時は、可愛いって素直に言えばいいだけなんです!」
何故か怒られた。
「真面目か! あんまりだよ、チーフ……。」
店の中とは違った、鋭いツッコミが飛ぶ。百瀬くんにまで呆れられてしまった。
何でだ。
これだけテーブル席も多いなら、フロアのスタッフは動き回る必要があるはずだ。もう少し動きやすい服装の方が良いんじゃ、と思っただけなんだけど。
「ご……ごめんなさい。」
とりあえず、こういう時はまず謝った方がいい。何故かそんな風に直感が働いて、即座に謝る。
働くならさっきの返事の時に働けよ、オレの直感!
もう! っと頬を膨らませる彼女に誘導されて、カウンターの隅に腰を掛ける。
BGMも大きく、その分店内の声も大きく響いている。
まあ、若い方にはこのくらいが落ち着くのかな? と、自分も若い部類には入るくせに考えてみる。
居酒屋の延長線のような、楽しそうな雰囲気だ。
「はい、先輩! メニューと、おしぼりです!」
そう言ってカウンターの上に置かれた。
後輩はまだ拗ねているように、頬を膨らませていた。ありがとう、と苦笑しながら返してメニューを開く。
何故か百瀬くんがこれが……ツンデレ!? と喜んでいた。ツンデレってなんだろう、とは思ったが、多分触れない方がいい気がした。
結構ドリンクメニューも充実してるな、なんて眺めながら、ジン・トニックを二つ頼む。
ウチはオーセンティック・バー。
どうしてもその性質上、若い方にとっては敷居が高くなる。若い方へのバーへの入り口を広げる、という意味では、こういうお店もいいな。
スペースの問題で、本格的な料理も出せない。乾き物ばかりで、やっぱり若い方にはお腹に溜まる食事も何か考えた方が良いのだろうか。
百瀬くんもヘルプとはいえ定着したわけだし、そろそろフードの再開も考えてもいいかな?
そんな風に、フードメニューを広げながら思っていた時だった。
「あ、あの……ちょっと、こういうお店、ボク、来るの初めてで……よく、わからなくて……何頼んだら、いいか……ご、ごめんなさい……。」
三つ席を挟んだ向こうから、少しだけ張り上げた、震える声が届く。先程、オレたちより先に、店に入って行ったお客様だった。
ごめんなさい。
それをカウンターで言わせてしまったことに、自分の店ではないというのに、申し訳なさが込み上げてきた。
「ああー、そうなんだ? まぁ大丈夫だよ、ウチには何でもあるからね! 初めてのバーなんだ? なら、せっかくならカクテルの王様、ってやつを飲んでみるかい?」
カウンターの向こうにいたのは、三十前後だろうか。
まだ若い。髪をオシャレにセットした、いわゆるイケメン、だろう。
彼がそのお客様に提案していた。
カクテルの、王様……? 隣の百瀬くんが眉を顰めているのが見える。
「やっぱりねぇ、バーを知りたきゃ本物を飲まなきゃ。マティーニこそバーの本物! ってね。こいつはね、ステアって方法で作るんですが、コレがまた大変なんですよ。そもそもね――」
ギルビーのドライ・ジンとチンザノのドライ・ベルモットを取り出しながら、そのバーテンダーが語り始める。
お客様は、明らかな戸惑いをその顔に浮かべていた。ハ、ハァ、と生返事を返しているだけ。何も届いていない。
もう、我慢ができなかった。
「帰るぞ、百瀬くん。――ここには、何もない。」
「……はい。」
席を立ち、ドアへ向かう。
慌てたようにバーテンダーが駆け寄ってくる。
整髪料の香りだろうか、それとも香水か。酒とは違う、飾り立てる匂いが鼻を刺した。
「あれ、どうしたんですか、今お作りして――」
「いえ。今日は帰ります。」
「何かありましたかね?」
唇を噛む。なんで、平気なんだ……!
怒りを声に乗せないように、腹の内で必死で押し留めながら――やっとの思いで絞り出す。
「いえ……なんでも、ありません。」
後輩が、心配そうな目で駆け寄ってきた。
なんとか片頬を笑みの形に変える。彼女は、何も悪くない。
ごめん、急用を思い出して、とだけ告げる。
チャージ代とジントニック代として四千円を渡してドアベルを鳴らす。
おい、あれって……確か、バーテンダー潰しって言われてる、という、小さな声がテーブル席から聞こえて来た。
ここにいてはいけない、そう感じた。
「すみません、失礼します。」
それだけ告げて、ドアを閉じた。
「……百瀬くん、Yに行こうか。今日は飲みたくなっちゃったよ。」
Yへの道すがら、横山マスターに報告の電話をしたら、まあ予想通りだな、と言われた。
良くキレなかったな、と言われたのは――オレどんな人間だと思われてるんだろうか、とやり切れなさだけが残った。




