百瀬の失敗
「チーフ、明日はお願いします!」
百瀬くんの元気な声が響く。
最近、隣の駅の近くに新しいバーがオープンした。
若い方を中心に人気を博し、かなりの賑わいを見せているという。
勉強のためにも他の店を見てみたいと請われて、次の店休日に一緒に行こうと話していた。
店休日とはいえ、Yのバーテンダーを連れ歩くわけだから、横山マスターには一言許可を得てからだ。
そう考えて、連絡をした時だった。
『チーフ。お前があの店を見たら――いや、余計なことは言わない。だが、これだけは言っておく。キレるなよ、"バーテンダー潰し"。』
バーテンダー潰し――それは、昔オレとのカクテル勝負が原因で、兄弟子が店を閉めたことで生まれた、オレにとって不本意な異名。
流行りの店……そこに、何があると言うんだろう。
その夜の営業を進めていた時だった。
もう少ししたら、終電を気にするお客様も増える。そんな頃合い。
蝶番を軋ませて、二人のお客様が入って来る。
三十代、前半だろうか。男性は少し芝居がかった仕草で、派手なスーツを身に纏っていた。
お連れ様は二十代……前半かな。オレとそう変わらないように思える女性。体のラインが出る服装をしていた。
ただ、二人ともかなりのお酒を召しておられることは、一目で見て取れた。
特に女性の方は、足元も覚束ないレベルだ。
「「いらっしゃいませ。」」
百瀬くんがメニューとおしぼりを持って向かい、テーブル席へ誘導していた。
その時、カウンターの隅に座る、相崎様のグラスがもうすぐ空きそうなのが目に映る。
「次は何に致しますか?」
「そうだな……どうしようか。チーフのオススメは何かあるかい?」
相崎様は本日五杯目。
ロング、ショート、ロング、ロング、ショートと来ている。空いたチェイサーに水を注ぎ足す。それを追う視線が、少し揺れていた。
電車でお越しのはずだから、これがちょうど最後になりそうだ。
「そうですね……今日はそろそろ、でしょうし。最後は少しサッパリと、ジントニックはいかがでしょう? たまにはプリマスも面白いと思いますよ。」
少しだけアルコールの回った目で考えているようだった。
その時、百瀬くんが戻って来た。オーダーを受けたのだろうか。
そう思って、横目でチェックしていた時だった。
カクテルグラスを二脚取り出し、冷凍庫に入れるのが見える。
取り出したのはドライ・ジンとドライ・ベルモット。
――何を馬鹿なことを!
「すみません、少しだけお待ちくださいませ。」
相崎様に断りを入れ、百瀬くんの手を止める。
「それは?」
「あ、はい。ドライ・マティーニを、とのオーダーだったので今準備を、」
「……お前は。それを受けたのか。」
声に怒りを隠すことなく問い詰める。
「……はい、いやだって、お客様が飲みたい、と仰られるから、」
「言い訳はいい。わかった。」
百瀬くんが肩をすぼめて、身を縮こまらせる。
「お前は、今日はもう何もするな。カクテルメイクはもちろん、オーダーの確認も何も、だ。ただ黙って私の仕事を見ていなさい。」
それだけを告げてテーブル席へ向かう。
「お客様、ご歓談中失礼致します。先程、マティーニを、とのオーダーをされたと伺いましたが、お間違いないでしょうか?」
「あ? そうだよ、早くマティーニ持って来い、マティーニ。カクテルの王様なんだろ? 早く飲ませてくれよ。」
言葉はゆっくりで、舌が回り切っていない。これは……。
「――申し訳ございません。今はまだジンの温度が高いため、マティーニはすぐにはお出しできません。」
頭を深く下げる。
「お待たせしてしまうお詫びと言ってはなんですが。よろしければ私から、一杯目をお出しさせていただきたいのですがいかがでしょうか? こちらは、サービスということで。」
「あ? ジンの温度? よくわかんねえけど、まあ、奢りだってぇんならもらってやるよ。」
「ありがとうございます。ではすぐにご用意致します。」
そう言って、カウンターの中に戻る。
酔客でつい気が大きくなった方が、ああした態度に出てしまうことは珍しいことではない。いちいち目くじらを立てることも、もうとっくの昔になくなっていた。
カウンターの中では、百瀬くんが立ち尽くしていた。
「カウンターの外に出ていなさい。そこは、邪魔です。」
タンブラーグラスを二つ取り出しながら、カウンターの中だけに聞こえる大きさで、冷静に告げる。
百瀬くんが顔を青くして、カウンターの外に向かう。
オレたちがこのカウンターで出すものが何なのか、もう一度思い出してもらわなければ。それまでは、バーテンダーとしてこの場に立たせることはできない。
それがオレの――責任だ。
相崎様にももう一度声を掛ける。
「お待たせしました。いかが致しますか?」
「ああ……向こうは大丈夫なのかい?」
さすが、相崎様だ。状況を察したのだろう。ベテランバーテンダーの目で、テーブル席を見つめていた。
このカウンターで、その目をさせてしまったことが申し訳ない。
「ご心配をおかけしまして申し訳ございません。大丈夫ですよ。」
「チーフがそう言うなら大丈夫か……じゃあ、お任せで頼めるかい?」
「かしこまりました。」
そう告げて、タンブラーグラスをもう一つ。
まずは一つのタンブラーグラスに、カットレモンで口をリンスする。
皿に広げた塩の中に黒胡椒を挽き混ぜ、スノースタイルに仕上げる。
別のグラスには、半分にカットしたライムを落とす。
三客のグラス全てに氷を組み、並べて行く。
取り出すのは、プリマス・ジン、フィンランディア。
冷凍庫からはビーフィーター・ドライ・ジンを、そして冷蔵庫からトニックウォーター、ソーダ、そして――クラマトトマトジュース。
まずは目の前のお客様から。
プレ・ステアでグラスを十分に冷やし、溶け出した水を捨てる。
プリマス・ジンを45ml、静かに注ぎジンを十分に冷やすようにステアする。
そのままトニックウォーターで満たし、カットライムを搾る。
最後にグラスの縁から差し込んだバースプーンで下から氷を持ち上げるように、二回。
目の前のお客様のグラスを下げ、たった今完成したグラスと引き換えにする。
「お待たせしました、プリマスのジン・トニックです。」
そのまま、次のカクテルを作り始める。
ビーフィーター・ドライ・ジンを30ml。
ソーダで満たす。こちらも、ライムごと持ち上げるように、二回。
マドラーを挿し込み、このグラスはもういい。
そして、スノースタイルに仕上げたグラスには、クラマトトマトジュースを注ぎ、先程リンスに使ったレモンを軽く搾る。
高速ステアでクラマトトマトジュースを冷やす。
最後に赤く染まったグラスの中に浮かぶ氷の上に、バースプーンの背を伝わせるようにしてフィンランディアをフロートさせる。
その量は、3mlにも満たない。
トレイに乗せて、テーブル席へ。
「お待たせいたしました。こちら、ジン・リッキーでございます。そしてこちらは、"ブラッディーシーザー"でございます。」
目の前にグラスが置かれたことで、気が付いたのだろう。
テーブルの上で完全に突っ伏すように意識を飛ばしていた女性が、ノロノロと手を伸ばす。
「ちょっと待てよ、それ、本当に酒か?」
男性客が横から口を挟む。幾分か言葉がしっかりしてきたように思えた。
――もう少しクールダウンできれば、大丈夫そうだな。
「はい、間違いなくウォッカが入っておりますよ。確認なさいますか?」
オレがそう言うと、女性客から奪うようにしてその赤いグラスの匂いを嗅ぐ。
「うぇっ、これトマト入ってんのかよ! まあ、確かに酒の匂いがすんな。なら、まあいいか……。で、これは、何だっけ?」
そう問い掛けながら、"ブラッディーシーザー"を女性客に手渡すところを確認して返事を返す。
「はい、こちらはジン・リッキーでございます。甘さを抑えてスッキリしたカクテルですね。あ、そのまま飲むのではなく、横のマドラーで下のライムを潰しながら、お好みの味わいにご調整いただくと良いですよ。」
酔いのせいで、上手くライムが潰せないのだろう。クルクルと回るライムに悪戦苦闘しながら、少し口にしてはジン・リッキーの味わいを確かめている。
その間に、女性は――ひと口を小さく口に含んだ途端、目を見開いた。
そのままゴク、ゴクと喉を鳴らしながら、オレの作った"ブラッディーシーザー"をあっという間に飲み干して行く。
良かった。狙い通り、だったな。
失礼します、とその場を辞そうとした時。
「ありがとう、バーテンダーさん。これ、もう一杯もらっても良い?」
男性が嬉しそうに女性に声を掛ける。
「お、何だよ。それ気に入ったのか?」
「そうね――いい、お店ね。バーテンダーさん。」
「ありがとうございます。すぐにお持ち致します。」
次は香りを置く必要もなさそうだ。
先程の塩胡椒の皿をそのまま用いて、スノースタイルにする。
氷を入れ、クラマトトマトジュースを満たして、ステアで充分に冷やしたら、そのままテーブルにお持ちした。
その女性客は、次の一杯もあっという間に飲み干した。来た時とは見違えるようなしっかりとした足取りで、男性を促して帰って行った。
ジン・リッキーは、まだ半分も飲み干されてはいなかった。
時間を置かずして、その夜の営業も終わる。
「チーフ……すみませんでした。」
百瀬くんが謝ってくる。
少しくらいは届いただろうか。
「ああ。今日は何を失敗したのか、自分が何をしようとしたのか。よく考えてみなさい。」
「……はい。」
「これだけは言っておくよ。本物は、お客様を潰さない。お客様を活かすんだ。お客様を潰すのは――偽物だよ。私は、本物しか認めない。いいな。」
「わかり、ました……。すみませんでした、本当に。」
「良し。それだけ反省できたなら大丈夫だね。とりあえず明日は、十九時に駅で待ち合わせでいいね。せっかく休みにまで行くんだ、しっかり勉強しに行こう。」
「はい。よろしくお願いします。」
そんな風にしてその夜は、少しだけ重い空気を漂わせたまま、終わりを告げた。




