百瀬、最初の一杯
横山マスターに言われたことを思い返しながら、カウンターに戻る。
百瀬さんは、期待と不安で落ち着かない表情を浮かべたまま、オレを見つめていた。
待たせて、ごめん。
「根津様。大変お待たせいたしました。横山マスターから、間違いなく許可をいただきました。」
「だろ?」
ニヤリと、根津様の頬が上がる。
オレの後ろで、百瀬さんは驚きに目を見開き、口を開けて固まってしまった。
オレも、覚悟が必要だな。
百瀬くんに向き直り、オーダーを告げる。
「百瀬さん……いや、百瀬くん。お客様にお出しするカクテルは、水割りだ。作れるね?」
指導側が遠慮していてはダメだ。
さん呼びは、今日今この時をもって終わりにする。
くん呼びに変えた意味を理解したのだろう、百瀬くんの表情が一段と引き締まる。
「は……はい!」
「えぇ、水割りなの?」
拗ねたように唇を尖らせる根津様だけど、ここは何を言われても譲れない。
「はい。この店では、お客様への最初の一杯は、デュワーズの水割りと決められています。これは私もそうでした。先輩方もそうしてきたと伺っております。ご了承ください。」
「まあ、店の決まりなら仕方ないか。わかったよ。百瀬くん、お願いするよ。」
不承不承ではあるが、ご納得いただいた。
その間に、百瀬くんの準備もできたようだ。
「水割りはデュワーズで、シングルだ。わかってるだろうけど、アルコールと水の比重を意識して、ゆっくりでもいいから確実に、ね。」
「はっ、はい!」
8オンスのタンブラーグラス、デュワーズ、そして割水。
水割り用の四角にカットしたキューブアイスを、ペールに入れて渡す。
百瀬くんがグラスを手に取り、アイストングで氷を挟む。
手が、震えていた。
それは武者震いか、緊張か。
タンブラーグラスに、氷が積み上がる。
バースプーンが右手、グラスは左手。氷の隙間へバースプーンを挿し込む。
一回転。
二回転。
何も入れないまま、グラスの氷を回す。
グラスを冷やし、氷の角を取るための大切な儀式だ。グラスから抜いたバースプーンで氷を押さえながら、グラスに溶け出した水を捨てる。
タンブラーグラスを、静かにカウンターに置く。
左手に持つメジャーカップが揺れる。
百瀬くんにとっては、生まれて初めてお客様の目の前で酒を作る。
オレも、最初の一杯の時は手が震えて……あの時は、マスターが、確か。
「大丈夫だよ。今まで自分のしてきたことに、自信を持ちなさい。」
あぁ、そうだ。
自然と、マスターと同じ言葉が口を突いて出てきた。あの時のマスターも、こんな気持ちだったのだろうか。
百瀬くんの手の震えが、少しだけ小さくなる。根津様も、一言も発することはない。
こぼさないように、と慎重にメジャーカップに注がれるデュワーズ。トットットッ、という小さな音だけが、心臓の鼓動の代わりに聞こえる。
常温の液体に触れた氷が、ピキ、と音を立てる。
氷のような緊張感が、カウンターを支配していく。
計り終えたメジャーカップを傾けて、グラスに注ぐ。
氷とデュワーズを馴染ませるために、もう一度ステアする。氷が溶け出さないように、素早く、四回。
水を規定量まで注ぎ、バースプーンをグラスと氷の隙間に挿し込む。
横回転だけではダメ。縦方向も合わせた、楕円をイメージしたステアが大切。
そうでなければ、比重の違う二つの液体は決して混ざり合うことはない。
その時だった。
カシャ
小さな音が響く。
バースプーンと氷がぶつかる音だった。
百瀬くんの手が止まる。目を見開いて、焦りの表情を浮かべる。
根津様も、何も言わず……小さく目を見開く。
オレも、何も言わない。
オレに答えを求めるように、百瀬くんが振り向く。見つめる目が、助けを求めている。
だが、オレは答えを出さない。プロのバーテンダーとして、彼自身に答えを出させる。
カウンターに立つ覚悟を決めたのなら、それは責任だ。
だから、一言だけ。
「キミの、やりたいようにやりなさい。」
それは……いつかのマスターがオレにくれた言葉。オレが、バーテンダーとして、その責任に目覚めた日の言葉。
百瀬くんが、突き放すような言葉に目を見開く。しかし、考えたのは一秒にも満たない。
もう一度、根津様の方に向き直り、しっかりと目を見つめて告げる。
「根津様、大変申し訳ございません。この水割りは失敗してしまいました。今すぐ作り直させていただきます。もう少しだけ、お時間をください!」
言い終えて、深く頭を下げる。
根津様は……あの、包み込むような優しい、柔らかな笑顔で。どこか嬉しそうに、百瀬くんを見つめ返している。
「いいよ。キミが、今できる最高の一杯を、飲ませてくれ。」
「ありがとうございます!」
百瀬くんがもう一度頭を下げる。
すぐさまグラスを洗い場に戻し、自ら新しいグラスを持ってくる。吹っ切れたのだろうか、動きから固さが抜けたように思える。
良い表情になったな、そんなふうに感じた。
手順通りに進め、先程失敗したステア。うん、今度は上手くいっている。
おっと、そろそろ止めないといけないな、気付いているかな?オレのイメージからは二回ほど多く回ってから、バースプーンは動きを止めた。
これが、百瀬くんの最初の一杯。
「水割り、でございます……。」
初めての一杯を作り終え、評価を受ける、という現実に再び緊張の波が訪れたのだろう。
少しだけ震える手で、グラスを置く。
「ありがとう。」
根津様の大きな手が、グラスを抱える。
ゆっくりと口に運ばれるグラスを、百瀬くんは片手でもう片方の腕を押さえながら見つめる。
ふふ、緊張するよね。
根津様の唇に百瀬くんが作った水割りのグラスが触れ、その中の柔らかな黄金色の液体が口内へと注がれる。
「…………ああ、旨い。」
目を閉じて、ゆっくりと味わった根津様が、唇の端を持ち上げながら感嘆の声を漏らす。
百瀬くんの表情が、緊張から解放され一気に綻ぶ。
喜びに紅潮した頬を弾ませ、
「ありがとうございます!!」
わかるよ。嬉しいよね。
"うまいよ"。
その短い一言は、バーテンダーにとって最高の賛辞だ。




