二流と一流
バックヤードに下がり、時計を見る。
時計の針は頂点を回り、わずかに傾きを見せていた。
この時間なら、横山マスターはまだお店にいらっしゃるだろう。
携帯電話で、Yの店番号をダイヤルする。
緊張で手が震える。
プルル、と呼び出し音が鳴る。
その音が、オレには時限爆弾のタイマーのように聞こえた。
三コールで電話が繋がる。息を呑む。
『お電話ありがとうございます。バーYでございます。』
この声は――
「あっ、横山マスター。いつもお世話になっております、あの、チーフです。」
『ああ、チーフか。根津様から聞いたか?』
「はい、百瀬さんのことです。百瀬さんの、最初の一杯……。」
『ああ、許可を出したぞ。お前から見て、百瀬はどうなんだ?』
唾を飲み込む。
「非常に真面目で、真剣に取り組んでいます。時間があれば、常にステアの練習も欠かさない。いい、バーテンダーになると思います。」
『そういうことを言っているんじゃない。オレに遠慮するなよ。アイツの酒は、もうお客様に出せるレベルか?』
ぶっきらぼうな言葉が、ちゃんと本音で話せ、と急かす。
ここで、下手にお茶を濁すようなことは言えない。
言ってはならない。
それは、百瀬くんのためには決してならないからだ。
「まだ、もう少し時間は必要かも知れません。ですが、最初の一杯、のタイミングとしては、ちょうど良いと思います。」
この最初の一杯。
バーテンダー人生を決める一杯は、早くても遅くてもいけない。
これから伸びるためにも、そろそろ殻を破る必要があるとは感じていた。
その許可を出す権限が、オレにはないと思っていたから……言えずにいただけだ。
『そうだろう。私も、そろそろいいかな、とは思っていたんだ。頼んだぞ、チーフ。』
「ですが横山マスター! その、大事な一杯を、オレなんかが!」
『オレなんか、がなんだ。お前の評判は聞いてるし、私も見たさ。お前に足りないのは、人を育てる経験だ。』
オレに、足りないもの――
『いいか、バーテンダーはな。旨い酒を出すのは当たり前だ。だけど、それだけじゃ二流なんだよ。』
ガツンと、殴られたような衝撃を受ける。
『お前の、酒の味は間違いなく素晴らしい。だが、孤高なんだよ。それは、お前が一人で全部抱え込んで、どうしようもなくなってから私のところに頭を下げに来た時に、わかっていた。』
そうだ。
あの時にも、横山マスターには怒られた。もっと頼れ、と。
『いいか、覚えておけ。本当のバーテンダーはな。人を育ててこそ、一流なんだ。』
人を、育ててこそ。
そんなことは、考えたこともなかった。正直、そんな余裕もなかった。
店を回すこと、その日の営業を無事に終えること。それしか、考えられないでいた。
電話口の向こうから、呆れたような深い溜息が聞こえる。
『お前の悪いとこだ。謙虚であること、責任感が強いこと。確かにそれは美徳だ。だがな。』
ぶっきらぼうなはずのその声が、優しく聞こえる。
『行き過ぎた責任感は、お前自身の身を滅ぼすぞ。もっと周りを頼れ。アイツの弟子なら、私にとっても弟子なんだ。私にも、もう少し助けさせろよ。』
「ありがとう、ございます……。」
唇を噛み締める。喉が詰まって、視界をにじませようとする。
厳しいはずの声が、やけに温かく聞こえる。
『百瀬を、頼む。アイツを、お前に任せたぞ。じゃあ、切るからな。』
「ありがとうございます! 責任を持って、育てさせていただきます!」
『バカやろ! お前が一人で背負うなっつってんだろ!なんかありゃすぐに相談するんだよ! ったく……、ギムレットの王とか呼ばれてるくせにそっちは半人前だな!』
ん?最後なんて言った?
聞き返す前に、電話が切れる。
少しだけモヤモヤとしたものを覚えるが、それは今はどうでも良い。今は、そんなことよりも優先しなければならないことがある。
百瀬さんの、最初の一杯。
さっき噛み締めていた唇から、薄く血の味がする。そっと舌で舐め取り、気持ちを切り替えようと頬を張る。
掌に、熱を感じる。
この熱が何なのか、今ならわかる気がする。




