女の勘
せっかくのチーフのオリジナルカクテルも、もうすぐなくなる。
お代わり、しようかな。そう思って、グラスを持ってカウンターへと一歩踏み出した時だった。
聞き慣れた、蝶番の軋む音。この音を聴くと、このお店に来たんだな、って実感する。
でも、今日は貸切なのに、なんで――
「あれっ! もしかして、今日は貸切かい?」
見たことのあるお客さんだった。
トモくんが私に、告白してくれた時にもいた人。確か……。
「安永様。表に貼り紙してたじゃないですか。今日は通常営業は二十一時からですよ?」
チーフが笑いながら声を掛ける。そうだ、安永さんだ!
いつ来ても、この安永さんはお店にいて、ちょっとだけ飲んで帰る。
あまりにもいつもいるもんだから、安永さんはこのお店にパトロールに来てるんじゃないか、なんてトモくんと話していたこともあった。
あながち間違いじゃないのかもしれない。安永さんのチーフを見る目は、いつもどこか見守るような、優しい光を宿していた。
「ねぇ、トモくん! いいかな?」
私の言いたいことがわかったんだろう。トモくんも笑って返事をしてくれた。
「そうだね! 安永さんのパトロールもあるだろうから、参加してもらおうか!」
トモくんが杉本さんに、私はチーフに声を掛ける。
「チーフぅ! せっかくなら、安永さんにも参加してもらいたいんだけど、いいかな?」
「えっ、安永様もですか!? いや、もちろんお二人が良いのなら、私は構いませんが……。」
「オレなら出直すから、そんな気を使わなくても大丈夫だよ? 今日は……あれ、結婚式?」
安永さんが、みんなの姿を見て察したのだろう。
私は左手の薬指を見せつけながら、
「そうなんです! 私もついに人妻になりました!」
「おお! キミたちの結婚式だったんだ! おめでとう。そっかぁ、人妻かぁ〜! ……なんか……エロいな。」
チーフが呆れた顔でツッコミを入れる。
「……やっぱり断りません?」
その軽妙なやり取りが、なんだかおかしくて。つい声を上げて笑ってしまった。
「どうしたの、さや……そんなに笑って。」
トモくんが杉本さんと戻ってきた。キョトンとした顔で、私を見ている。
本当に、トモくんは表情が豊かで、そういうところは素直で……可愛いなぁ。
「あっ、トモくん! 安永さんが、おかしなこと言うもんだから、つい。ぷっ、だめ、まだ笑いが止まんないよ〜!」
どうしたんだ?という顔をしながら、トモくんが杉本さんを紹介してくれる。
「安永さん、良かったら一緒にどうですか? せっかくなら、安永さんにもお祝いして欲しくて。詳しくは、幹事の杉本に聞いてもらえたら。ご迷惑でなければ、ぜひ!」
「幹事の杉本です! 三井からもお話し伺いまして、なんでも告白の日にもいらしたとか。その辺の話も聞かせてくださいよ! あ、一応、会費はかかっちゃうんですけど、それでもよろしければ……。」
「大丈夫かな? こんなおじさんが紛れ込んでも……。」
ようやく笑いのツボから抜け出せたから、私も参戦する。
せっかく来てくれたのに、追い返すなんて申し訳ないもんね!
「もちろんですよ〜! ぜひぜひ!」
「そういうことなら、お言葉に甘えて……。会費はいくらなんだい?」
「ありがとうございます。会費は、一応本日は飲み放題でお願いしてまして。五千円になるんですが、大丈夫ですか?」
「五千円!? 飲み放題で!? そいつは……チーフ、また随分と奮発したな!」
安永さんが、大きな声を上げてチーフを見る。
その声に、周りの声が一瞬止まる。
「あ、いや、すみません皆さん。お騒がせしちゃって。」
安永さんがペコペコ頭を下げて、みんなの顔に笑顔が戻る。
「えっと……安永さん、でしたよね? 奮発した、というのは……?」
「ああ、いや、すみません。ここはほら、オーセンティック・バーじゃないですか。特にこのお店は、基本的に果物はその場で搾ったりしますし。元は取れるとは思いますが、その……五千円って、実はかなり安いですよ?」
聞き耳を立てていた周りから、ざわめきが広がってゆく。
杉本さんなんかは、一瞬固まってしまって言葉を続けることができないでいた。
「いえいえ、とんでもありません。ちゃんと利益は出るように設定させていただいていますから、ご安心くださいませ。」
「なら良いんだが。うん、五千円ね。喜んで参加させてもらうよ。」
そう言って、杉本さんに五千円を渡した後は、何やらチーフに話しかけている。
この安永さんと、もう一人……工藤さん、だったかな?その二人にだけは、チーフも気安く話すんだよね。
それは……確か、マスターがいなくなってから。
マスターを見なくなったのは、トモくんと私が付き合うことになってからすぐのことだった。
一度だけ、最近マスター見ないね、って私が言っちゃったことがあった。その時、チーフは……またあの、どこか寂しそうな顔をしてから――腰の具合が良くないようで、って笑ってた。
それからは、マスターのことを話題に出したことはない。
それからは、見なくなったはずのあの寂しそうな表情が戻っていた。
お客さんと話す時には、整った笑顔を見せる。
でも、ふと……洗い物をしている時、フルーツを切っている時、シェイクの前の集中する時に。
一瞬だけ、あの表情をする。
最近は、疲れた顔を覗かせることもあった。
絶対に、マスターに何かあったんだと思う。そのせいで、チーフが何か無理していることもわかっていた。
でも、それは触れちゃいけない秘密のような気がして、でも何か協力できないかなって思って――トモくんにもお願いして、ここで二次会をさせてもらった。
笑いながら安永さんと話しているチーフを見てると、胸が痛い。
チーフが抱えている秘密が、彼を苦しめることがありませんように――そんなことを願っていたら、袖を引っ張られた。
マキちゃんだった。
「ん?どうしたの、マキちゃん。」
「ねぇねぇ、さや〜! あのチーフ、めちゃカッコよくない? 超イケメンじゃん!」
マキちゃんは絶賛彼氏募集中、華の二十六歳、私と同い年。
確かにチーフはイケメンの部類には入ると思う。それも、かなり。
だけど――
「チーフが気になるの? でも、やめといた方がいいと思うよ?」
「えぇ〜、なんでぇ〜!?」
「多分……好きな人いると思うよ、チーフ。」
口にしながら、胸がチクリと痛む。もう、諦めたはずなのに。
「あ〜、やっぱり彼女持ちかぁ〜! くっそぅ、どこかにイイ男は落ちてないかなぁ〜!」
「彼女、ではないと思うけど……。」
「えっ、じゃあ、まだチャンスあるかな!?」
「チャンスがあるかどうかはわからないけど……でも、やっぱりやめといた方がいいと思うよ?」
「なんでよ〜! なんでそんなことわかるのよ!」
「ん〜、女の勘、ってやつかな?」
そう。直接聞いたわけじゃない。
だけど、あの夜、マスターが言っていた、昔の傷。きっとそれは、まだ癒えていない。
そして、多分また新しい秘密を抱えて、チーフは踏ん張っているところなんだ。
私には、何もできなかったけど――こうやって、小さなことでもいいから、チーフの助けになれたら。
それだけで私は、この恋をして良かった、って思える。
そんな気が、してた。




