暴発
大学に進学して、少しずつ絵に没頭するようになって。
描く楽しさ、さらに上手くなっていく喜びと反比例するかのように、それ以外の時間に考え込むことが増えた。
適度な運動のつもりでサッカーサークルに入り、膝の痛みと相談しながら一日十五分までなら大丈夫、と判断して走るようになったのも、考える時間が苦しかったからだった。
と言っても、サークルの先輩達には見抜かれていたみたいで。
昔話をした時には、皆で泣いて、お前のその苦しみを忘れるなよ、それが彼女が最期に残してくれたもんなんだから……大事にしろよ、と言われた時は、少し救われたような気がして、声を上げて泣いた。
苦しんでもいいんだ、って。
それでも、空虚な心は埋まることはなくて。
不良仲間達とつるんでいた時に覚えた酒と煙草の量が、自然と増えていった。
彼女の一回忌が終わった頃だった。
その夜は、長かった梅雨の終わりを予感させるような、蒸し暑い夜だった。
暑さに寝苦しくて、買ってあったビールも切れていて。
もっと強い酒が欲しくなって、コンビニに行った。
ただ……それだけだった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った街並みは、人が消えたんじゃないかと思うほどの寂しさで。
遠くに見えるコンビニの灯りだけが、この街が生きている証のように思えた。
コンビニの前には、何人かの若い人達……いわゆる不良的な連中がたむろっていて。
少しだけ懐かしくなって、自然と唇の端が持ち上がっていた。
彼らにとって、それが嘲笑に映ったのかも知れない。
「テメェ、今笑ったよな!」
そんな言葉を投げ付けられる。
オレもそうだったから分かる、彼らにとっては面子が大切で、笑われるなんてあってはならないことだから。
「あぁ、ごめん。キミらを笑ったんじゃないんだ、昔の友達思い出してさ。」
そんな風に言い訳をしても、彼等の怒りは収まることもなく。
まぁ、二、三発殴らせれば引いてくれるかな、なんて軽く考えながら、駐車場の裏に連れ込まれて。
金を出せ、だの、舐めんじゃねえぞ、だの。
罵詈雑言と、本物の暴力に慣れていないことがわかる、怯えたような拳が飛んで来た。
このくらいなら大したことは無いな、と思って適当に相手をしていたのが悪かったのだろう。
相手が逆上して……胸倉を掴まれた時に、首に掛けていたネックレスを見つけられてしまった。
「なんだぁ? こんな指輪なんざ」
それに触れられた瞬間――そいつの腕を掴んで、殴っていた。
奥歯が折れたのか、口から白い小さな塊が吹き飛ぶ。
殴る。
バーミリオンが混じる唾が飛び散る。
殴る。
目が赤く染まるのが見える。
もう一度、殴ろうとする腕を振り上げた時だった。
「すみませんでした!もう、やめてやってください!」
オレに腕を掴まれたまま殴られていたソイツの連れの一人が、振り上げた腕にしがみついて来て謝罪の言葉を吐く。
ふざけるな。
コイツは、オレの由美子に! ――そこまで考えて、急に怒りが冷めていく。
そうだ、由美子は、もう……。
「……悪かった、やり過ぎたな。ツッパるのは良いけど、誰彼構わずツッパるのはやめとけよ。」
急にバツが悪くなって、それだけ言って足早にその場を立ち去る。
「「すみませんでした!!」」
謝罪の声に右手を挙げて返事をしながら、殴ってしまった相手は、すぐに目を覚ますと良いんだけど……なんて呑気に考えながら家への道を歩いていったところで、酒を買いそびれたことを思い出した。
あちゃー、と頭を掻こうと伸ばした右拳が、ジンジンと痺れるような熱を持っていることに気付く。
また拳が破けちまったか……。
まあどうでもいいや、とにかく酒だな。
かといって、さっきのコンビニに戻るのはさすがに気まずい。
もうそろそろ目を覚ましているにしても、まだあの場に残っているだろう。
少し歩くが、違うコンビニにするか。
確か、駅のロータリーの向こうにあったはずだ。
そのコンビニの名前を思い出して、少しだけ寂しさを覚える。
いつもは避けているコンビニ……由美子と出会ったコンビニと同じチェーン店だったから。
大きな病院も近いし、品揃えが良いのは知っていたけど、どうしても足が向かないでいたのだ。
でも、こんな田舎では違うコンビニに行こうとしても三十分はかかる。
仕方ない。
缶ビールとツマミ、それとウイスキーを無事に調達する事が出来たオレは、少しでも早くその場を離れようと足早に歩いていた。
以前に飲んでその香りの良さとバーボンの甘い味わい、そして強烈なアルコール度数から来る、焼ける程の喉を通る感触が気に入っていた、七面鳥が描かれたボトル。
それに思いを馳せるフリをして、他のことは考えないように努めていた。
歩きながら今夜はあっちいな、と冷えた缶ビールのプルトップを押し上げる。
カシュ、と期待を膨らませる音が、静かな街並みに響いた。
途端に溢れ出す泡を迎えに行くように唇を寄せる。
口内に広がる苦味、喉を洗い流すような強い炭酸と冷たさに、生き返った心地がした。
空を見上げるようにして星を眺めながら、もう一年過ぎたのかと一人呟き、右拳から流れる血をジーンズで拭った時。
「酒が、泣いとるな……。」
静寂に夜の虫すらその鳴き声を潜めるような街に、しゃがれた低い声が小さく届く。
静かな凪の池面に小さな石を投げ入れた波紋のように。
いきなり何処から、と驚きつつ辺りを見渡す。
ビルの一階、ちょうど暗がりの中に、そのドアはあった。
重く、暗い色に染められたドア。
その前に、大きな看板……もう照明を落とされたその看板には、「Bar iori」の文字だけが刻まれていた。
その看板を両手で抱えるように、小さな爺さんが立っていた。
他には誰もいない。
さっきの声はこの爺さんか。
「なんだ、爺さん。もう今日は閉店かい?」
荒れていた時に、少しだけ水商売の世界に片足を突っ込んでいた身だ。
小さな共感を覚えた。こういう看板、重いんだよな。
こんな小さな爺さんじゃ仕舞うのも大変だろう――そんな、気まぐれからの声だった。
「看板重いだろ、持ってやるよ。」
これが、マスターとの初めての会話だった。




