治療
爺さんは、その見た目に似合わず軽い感じでラッキー、ほんじゃ頼むわ、なんて言ってそのドアを開ける。
ギィィ、と耳障りな音を立てる。
予想通り滑りが悪くなって、余計に重く感じる看板を店の中に引き込む。
それを見届けるように、再び蝶番が唸りを上げて、BGMの消えた店内に残響を漂わせていた。
「すげえ音だな、このドア。蝶番、直した方がいいんじゃないの?」
「ふん、良いんだよそのドアはそれで。その音が、私の代わりにお客様をお出迎えしてくれるってもんだ。」
「なんだそりゃ。しっかし、狭い店だな。カウンター席とちっさなテーブルが二つか。こんなので、商売になるもんなのかい?」
これから締め作業なのだろう、爺さんが店の照明の明るさを上げる。
そこに広がっていたのは、小ぢんまりとしたバー。
「まあな。大儲けできる訳ではないが、そこそこなんとかなってるよ。」
「そうなんだ。まあ、それなら何よりだね。んじゃ、帰らせてもらうよ。」
ドアに手を掛けようと背を向けたオレに、その爺さんが声を掛ける。
「まぁ急ぐな。さっきみたいなツラして飲まれる酒が可哀想だ。看板を仕舞ってくれた礼だ、私の奢りだ。一杯飲んで行きなよ。そのくらいの時間はあるんだろう、若いの。」
「え?酒に可哀想もなんもないんじゃないの?ただ酔えれば良い、それが酒だろ?」
不思議と、イライラすることはなかった。
ただ面白いこと言う爺さんだな、と思って足が止まる。
どうせこのまま家に帰って飲むつもりだったんだし、一杯奢ってくれるってんなら、と。
つまりは、タダ酒が飲めるんなら儲けたな、程度の、浅い考えだった。
もちろん、どんなもんを飲ませてくれるんだろう、って、ちょっと楽しみな気持ちもあった。
「とりあえずは、だ。酒を出す前に、見せてみろ、その手。」
静かな店内の一角に腰掛け、奢りだという一杯を楽しみに、辺りを見渡していたオレに爺さんは告げる。
口元は先程までの好々爺然としたままなのに、目だけが鋭い。
でも、その声には咎めるような響きは全くなかった。
何故か隠すこともなく、オレは言われた通りにしていた。
カウンターに、赤くなったその手を置く。
少し固まり、黒く変色を始めて、亀裂を生んでところどころ剥がれ落ちていた。
「派手にやらかしたな。喧嘩か?」
「あ、ああ。ちょっと、揉めて。」
「ハン! 若いってのは良いねぇ、エネルギーが有り余ってやがる。……ちっと待ってろ。」
そう言って、爺さんはタオルウォーマーから二本のおしぼりを取り出し、蛇口を捻って水道水に曝す。
ギュッと、力強く絞る。
おしぼりから滴り落ちる水をサッと振って切ると、カウンターの下から小さな箱を左手に抱えて来る。
おしぼりで手の甲の血を拭った後、その箱を開ける。
それは――救急箱だった。
「ちっと沁みるぞ。我慢しろよ。」
そう言って、消毒液を取り出して拳の傷に振りかける。
ビクン、と拳が跳ねる。
顔が歪むが、我慢できないほどでは無い。
手早く消毒液を拭き取り、絆創膏を貼り付けていく。
ドクン、ドクンと脈打つようだった傷の痛みが少し引いていく。
「ありがとうございます、手慣れてるんですね。」
「なんだ、急に敬語になりやがって。」
なんでだろうか、自然に敬語が出ていた。
「さあ……? ただ、ちゃんとお礼をしなきゃな、と思ったら、自然に。」
すみません、じゃなくて、ありがとうだよ!
懐かしい声が聴こえた気がする。
大丈夫、ちゃんと守れてるよ。心の中で返事をする。
「変なとこで素直だな。まあ、悪いことじゃないから良いんだけどな。」
「その救急箱は……? やっぱり酔って暴れる客とかいるんすか?」
「ああ、これか。こないだまでいたバカ弟子がな、喧嘩っぱやいやつでな。しょっちゅう怪我してやがったもんだからよ。おかげでこんくらいならお手のもの、ってな。」
消毒液と絆創膏を救急箱に仕舞いながら、爺さんはチラリ、とオレを見た。
「……喧嘩の原因は、ソイツか?」
親指で胸元を指差し、何かを指し示す。
先程胸倉を掴まれた時にボタンが吹き飛んでいたのか、ネックレスに通された指輪が剥き出しになっていることに、この時初めて気付いた。
隠そうと慌てて襟を寄せようとして、シャツの生地ごとネックレスを握り締めるような形になる。
「よほど大事なものらしいな……高いもんじゃねえだろうが、随分と大切にしてるようだな? 人に見られるのすらイヤ、か。」
「……関係、ないだろ。」
吐き出した言葉に棘が籠る。
これに、触れるな……!
「目付きが変わりやがったな……。それ程のもんか。ああ、関係ないさ。ただな。」
爺さんの目が、優しさを帯びてオレの目を……心を覗き込んでくるように感じた。
「お前が、悲しんでることだけは分かるさ。」
鼓動が跳ね上がる。
全部バレてる、そんな焦燥に駆られる。
何も言っていないのに、何故。
「気にすんな、別にとって食おうってんじゃないさ。お前の抱えてるモンに、ケチをつける気もないしな。」
そう言いながら、グラスを冷凍庫に入れる。
何かのボトルを取り出し、シェーカーを目の前に置く。
「今、うまいモン飲ませてやるよ。」




