指輪の約束
それからは、幸せ、という言葉の意味を噛み締めるような日々が続いた。
親父は、勉強して良い順位さえ取っていれば、オレが何をしていようと文句を言うことはなかった。
興味があるのは学校の成績だけなんだ、ということをまざまざと思い知らされたりもしたけれど――もう、オレにとってはどうでも良いことだった。
由美子の誕生日を一緒に祝おうとした時は、内緒でバイトをして、安物のペアリングを贈った。
彼女はそれを、宝物のように抱き締めてくれて。
オレは、普段付けていると親父に何か言われるかも知れないからと、その片方を、これまた安物のネックレスに通していつも身に付けるようにしていた。
オレが高校を卒業したら、堂々と指に嵌めるんだ、なんて笑って。
デートの時だけは、その指輪を指に嵌めて出掛けるようにしていた。
これでフミくんとはまた歳の差が開いちゃったね、なんて拗ねたように笑う彼女が愛おしくて、その唇に口付けをして……。
一緒に過ごした時間は、オレにとって宝物のように煌めく記憶になった。
それは、今でも色褪せることはない。
夏が終わり、秋の空気が街を冷やして。
肌を刺すような冬の寒さが訪れても、オレたちは同じ時間を過ごしていた。
寒いね、なんて笑い合って、一つの毛布に包まりながら、テレビでやっていた映画を二人で観て、感想を言い合いながら抱き合って、二人の体温を交換するように求め合って。
クリスマスが近付いて来た時には、一緒に過ごせると良いね、と笑って話していたのを……今でも、昨日のことのように思い出せる。
結局、二人で小さなケーキを買った。
分け合いながら食べたケーキは、初めて食べる、幸せな味だった。
そのクリスマスが終わった頃から、彼女の笑顔に曇りが見られるようになった。
いつもの、輝くような明るさが影を潜め、一緒にいても思い悩むように何かを言い掛けて、押し黙る。
その表情を見た時、途端に不安になった。
飽きられたんじゃないだろうか。
やっぱり、由美子にとって、オレはガキすぎたのだろうか。
そんな焦りから、小さな口喧嘩が生まれ。
その年の瀬は最悪の気分で過ごすことになって。
約束していた初詣のデートは、どこかぎこちないままに終わった。
そして、正月が終わり、オレの三学期が始まろうとしていたその日……。
彼女に呼び出された。
薄々、別れ話かな、なんて思っていたけど……、その予感は正しかった。
「実家で、見合いをしろ……って、言われてるの……。」
暗い表情で、彼女が告げる。
驚きは――半分だった。
彼女の実家は遠い地方にあるらしくて、小さな製造業を営んでいることは聞いていた。
小さな頃から、家族仲も良かったらしい。
親の愛情を一身に受け、親への感謝の言葉がいつも溢れていて。
家業も順調で、幸せな家族環境だったという。
その家業が、苦しくなってきたらしい。
地元の名士とされる人の息子が、彼女の同級生だったらしい。
中学校の時の片想いをずっと――今でも引きずっていたという。
その家業への支援と引き換えに、その息子との結婚を条件にされたと、呟くような声で彼女は語っていた。
彼女の、親への想いは強かった。
遠く離れていても、父母の誕生日や記念日には必ず贈り物をするくらいには。
そこに、オレの家にはない家族の優しさを見たような気がして、言い知れない寂しさを覚えたくらいには。
だから、彼女の苦悩もわかったつもりになっていた。
彼女は、親への想いを切々と語って……親が、苦しんでいるなら、力になりたい、と。
だから、もう、会えない、と。
一条の涙を流しながら、オレに告げた。
引き留めたかった。
ずっと側にいてくれるって約束したじゃないか。
高校を出たら堂々と二人で指輪をして、一緒に歩こうって言ったじゃないか……。
そう言って、オレとこれからも一緒にいよう、と、そう……言いたかった。
でも、彼女の涙がその言葉を踏みとどまらせた。
彼女は、ずっと苦しんでいたんだ――そのことが、言葉ではなく、涙が物語っていた。
手放したくなかった。
ずっと一緒にいたかった。
二人でなら……彼女が側にいてくれるなら、未来を信じることができた。
でも、それ以上に……彼女を苦しめたくなかった。
必死で言い訳を探した。
自分の気持ちを、少しでも納得させるための。
相手は資産家だという。
こんな、どうなるかもわからないガキより、余程経済的に安定できるんじゃないか。
オレが自分の意思だけで結婚できるようになるまで、あと四年と少し。
経済的に安定するのを待ったら、いつになるかわからない。
それまで彼女を待たせるより、彼女にとっても良いんじゃないか。
そんなことを、自分に言い聞かせていた。
長い沈黙の後……オレは、小さく頷いて……。
「そっ……か。わかった……幸せに、なってね……。」
それだけを伝えるのが……精一杯だった。
ごめんなさい、ごめんなさいと泣き崩れる彼女を、もう抱き締めることはできないんだな、と思うと……オレも泣けてきて。
その日は、二人で泣いた。
そこからはあっという間で……彼女は、勤め先にも無理を言って、たった一週間で全てを引き払って地元へと旅立っていった。
車の外から見送った時の彼女は、泣き腫らした目をしていて……。
きっと、オレとそっくりな顔だったことだろう。
そうやって、オレの初恋は終わった。
――ガキはガキなりに。
本気の恋だった。




