分け合ったコンビニのおにぎり
どうしよう。
今なら逃げられる。
このままここを立ち去っても、もう二度と会うことはないだろう。
そう思ってはみても、足が動かなかった。
彼女は、数分で戻ってきた。
その手に、コンビニのおにぎりの入った袋を持って。
「食べよ! あ、狭いけど車に乗って!」
訳がわからなかった。
見ず知らずの、名前も知らない子供に、この人はなんでこんなに優しくしてくれるんだろう。
怖くはないのだろうか。あの鬼の血を引く、オレのことが。
色々な疑問が渦巻く中、それでも言われるがまま車に乗っていた。
「シャケとシーチキンと、明太子! どれが良い? あ、飲み物はお茶しか買ってなかったけど、いいよね?」
彼女の声は明るくて、温かかった。
車に乗って、彼女の声を聴いている、ただそれだけなのに。
気が付いたら泣いていた。
相当な混乱と緊張の糸が、彼女の優しさに触れて一気に途切れたのだろうと、今ならわかる。
でも、その時は訳もわからず、ただ泣きじゃくるだけだった。
人前で泣くのも、二回目のことだった。
小学校の低学年の時、運動会で転んで泣いた夜。親父に男が人前で泣くなと、何度も殴られたから。
「大丈夫? ヤなことあったんだね。泣いちゃえ泣いちゃえ! 泣いた方がスッキリするよ!」
彼女は、茶化すでもなく、何を聞くでもなく。
ただ、そうやって、寄り添ってくれた。
オレが泣き止むまで、背中をさすり、ただそばにいてくれて。
どれ程その声が、その優しさが嬉しかったか……言葉にならないくらいに。
「泣き止んだね! おにぎり、どうする? って言っても、選べないか……。じゃあ、こうしよう!」
やっと泣き止んだオレに、優しく笑いかけて。
彼女はそう言って、おにぎりのビニールを外して、半分に割ってオレに渡してくれた。
「あっ、また海苔が千切れちゃった! これムカつくよね!」
そんな小さなことで笑う彼女が眩しくて、なんだかおかしくて。
その時、オレの悩みは、何処かに飛んで行ったみたいで、ようやく笑うことができた気がする。
「あ、やっと笑ったね! なんだ、笑うと可愛いじゃん! 今いくつなの?」
「十五、です……。」
「えっ! まさか……中学生、じゃないよね?」
「あ、いや、オレ早生まれで……今、高一です。」
「そうなんだぁ。あっ、辛っ! この明太子、当たりだね!」
口をもぐもぐと動かしながら喋る彼女が、なんだか可愛らしくて。
またオレは笑った。
「辛いの、苦手なんですか?」
「そ、そんなことないよ!? 私はお姉さんなんだからね!?」
顔を見合わせて笑う。
生まれて初めての、穏やかで幸せな時間だった。
「キミ、そういえば名前は? 私は笠間由美子、これでも二十五歳だよ!」
「オレは、……フミトって、言います。すみません、おにぎりまでいただいちゃって……。」
「フミトくんか、いい名前だね!」
いつも家で食べる時は、会話のひとつもない。
野球のシーズンには、贔屓のチームの中継を垂れ流し、凡打に終わった選手に悪態をつきながらビールを飲む親父が、目の前にいるだけだった。
ただ何でもないような会話をしながら、おにぎりを頬張る。
それだけなのに、食事とは、こんなに美味しいものなのかと驚いたことを覚えている。
「何があったのか、話せる?」
全部のおにぎりを分け合って食べ終えた後、彼女は聞いてきた。
車のエアコンが始動して、エンジンが低い唸りを上げている。
話したくないことのはずなのに、この時には由美子さんに聞いて欲しくて、全部話していた。
由美子さんは、何も言わずに時たま相槌を打ちながら聞いてくれる。
「……それで、親父を殴っちゃって……怖くなって、家を出て来ちゃいました……。」
そこまで話した時。
彼女がオレを見つめる目が――潤んでいる事に気付く。
「そう、だったんだ……辛かったね……。」
そう言って、右頬に涙が流れる。
どうして、この人は泣いているんだろう。
無関係の、オレみたいなガキのために。
そう思った時には、オレの身体が温かいものに包まれていた。
抱き締められたのに気付いたのは――彼女の髪の良い匂いが、鼻腔を満たした後。
その温かさが心地良くて、オレはもう一度泣いてしまった。
それから、もう少しお互いの話をした後、
「辛いかも知れないけど…家には、帰らなきゃね。ちゃんと、お父さんにもごめん、って謝るんだよ。」
「でも……あんなヤツに、」
「キミの辛さは、全部はわかんないよ。でもね、謝るのはお父さんのためじゃないよ。フミトくんの、自分の気持ちに区切りを付けるため。いい?」
「自分の……ため……。」
そんなことは、考えたこともなかった。その言葉が、自然と胸の中に落ちていく。
わかった、と頷いて、彼女の目を見ると、彼女は笑っていた。
そして、オレの頭に手を伸ばして、撫でてくれる。
子供扱いされてるのに、何故だかそれが嬉しかった。
「よし! 良い子だね!ねえ、いつも何時くらいに学校終わるの?」
「学校は……いつも帰ってくるのは夕方過ぎるくらいで。十八時くらいです。」
「そっか! 今日は私も飲み会だったから、こんな時間になっちゃったけど、私も残業とかなければそのくらいには帰れるからさ! また、ここで会おうよ! また、フミトくんの話、聞かせて!」
そんな、約束とも言えない約束。
そして、その日は別れた。
別れ際、初めて彼女に怒られた。
「今日は本当にすみませんでした。こんな時間まで話聞いてもらっちゃって……。」
「こぉら! そういう時はね、すみません、じゃないんだよ?
ありがとう、って言うの! わかった?」
「あり、がとう…?」
「そう! すみませんとか、ごめんなさい、は自分が悪いことをした時に言う言葉でしょ? そうじゃなくて、相手に感謝を伝える時はね。」
彼女が笑う。
「ありがとう、って、言うんだよ。」
これが、オレと由美子の出会いだった。
その後、家に帰った時には、まだ鍵は開いていた。
親父の寝室に向かうと、親父はもう、向こうを向いて横になっていた。
眠っているのか、寝たふりなのかはわからなかった。
その背中に、ごめん、と小さく呟く。
あぁ、と消え入りそうな……それでも、確かに返事が返ってきた。
親父がどう思って、あの返事をしたのかなんて知らない。
どうでも良かった。
ただ、胸の中にモヤモヤが消えていくのを感じて、自分の中での「区切り」を付けるって言葉の、意味がわかった気がして。
その日は――泥のように眠った。




