根津と安永
安永くんを伴って、病棟の談話室へと移動し、向かい合わせの席に座る。
随分と憔悴しているな。
彼も、かなりチーフに肩入れしていた。その証拠に、ずっと病室から離れようともせずに、付き添っていたのだ。
彼には珍しく、スーツはヨレヨレで、シャツの襟元や袖口には汚れも見えた。
だが、そんな様子では、私も話ができない。これは、れっきとしたビジネスの話なのだ。
「安永くん。キミがチーフのために尽力してくれたことは、私も理解している。だが、キミの顔も限界に見える。この後、私の話が終わったら、まず一度自宅に帰って、ゆっくり風呂に入って休みなさい。」
安永くんは、力なく頷くだけだ。
チーフが倒れて、ショックなのはわかる……私だって同じだ。
だが、彼の憔悴っぷりからは、何かそれ以上のものを感じる。
違和感が耳の奥でチリチリと警鐘を鳴らす。
だが、ひとまずは話をしなければ。これは、彼の利益にもなる話だ。
「先程チーフにも伝えた通りだ。私がioriを買い取る予定で動いている。ついては、これからの会計をキミにお願いしたい。」
安永くんは、まだ焦点の定まらない瞳をゆっくりと上げる。
意味がわからない訳でもあるまいし……苛立ちを隠して、話を続ける。
「まずは、ここまでの過去の会計処理の見直しもお願いしたい。さっきも聞いていただろう。キミならわかると思うが、あの店はおかしい。あれだけ客が入っていて、利益が残らないなんてことあるはずがない。」
考えたくもないことだが、まずは事実を洗い出す必要がある。
「そうした対応と合わせて。あの店の買取の適正額を見極めて欲しい。マスターの医療費に充てる、大切な金だ。」
少しだけ、安永くんの目に力が戻る。
だが……まだ、足りない。
「これは、私の利益のためじゃない。もちろん、最終的には私も利益を手にすることになるだろうが――優先はマスターと、チーフを守ることだ。スピードが要求される案件になる、他の件は後回しにしてでもお願いしたい。」
チーフを守る。
その言葉が届いた時、安永くんの眉がピク、と動いて、確かな反応を見せた。
もう少し、だろうか。
「急ぎの用件だ、当然その分の報酬も出す。他の仕事に影響が出るようなら、出た損失も私が出そう。頼めるか?」
悪い条件ではないはずだ。
これなら、彼も納得して協力してくれるだろう。
しかし、そんな期待は。
思いもしなかった形で裏切られた。
「それは……できません。」
「何故だ!キミは、ioriの事情もよく知っているだろう!チーフからの信頼も厚い!キミ以外に適任はいない、キミの力が必要なんだぞッ!」
声が大きくなる。
突然の大声に、談話室の視線が集中するのを感じる。
「そうじゃ……ないんです。ioriの、過去の会計資料の見直しも。買取のための適正価値の算定も。マスターと……チーフのため、ということは良くわかってます。」
なら、何故――その言葉を発するより先に、安永くんの言葉が届いた。
「だから、全部、私にやらせてください。ただ……費用は、私が自分で出します……。報酬も、受け取れません。」
意味が、わからない。
何故だ。何故、そこまで。
「私は……知っていたんです。」
それは、罪の告白だった。
知っていた。
その言葉が意味することは。
「……どういう、ことだ。全部、話してもらおうか。」
安永くんは、コクリと小さく頷き、続ける。
「私は……ioriに通い始めて六年ほどになります……。ケンジくんがあの店にいた頃から、通っていました。」
六年――チーフが入った頃から見ていたのなら、なおのこと彼に対する思い入れも強かったはずだ。
「そして、あの、三年前の、初雪が降った夜。その日は、自殺した部下の、葬儀の日でした……。とにかく、なんでもいいから、酔いたい気分だった……その日は、マスターは休んでいて……。」
もしかしたら、あの頃にはマスターはもう、と小さな呟きが聞こえた。
「当時は、まだチーフではなかったけれど……。チーフの酒を飲んで、チーフの言葉に助けられて……。それからは、ioriに足を運ぶ回数が増えていった……。」
ズズッ、と洟を啜る音が聞こえる――泣いているのか。
「ちょうど、二年程前。マスターが倒れた、その日にも……私は、ioriにいたんです。」
それは――許せない裏切りのように感じた。
この男は……チーフの苦しみを知りながら、何もしなかったというのか!
テーブルの下で握り締められた拳が、震え出す。
そんな私の疑念を置き去りにして、まだ安永くんの告白は続く。
「マスターが倒れた時、他には客もいなくて。泣いて、ただパニックになるチーフに代わって、救急車を呼んだのも私です……。そのまま、チーフと一緒に、この病院まで来て。その時、マスターの病気のことも、知りました……。」
テーブルに雫が落ちていく。
一滴、二滴と、一度溢れた涙は、もう止まることはなかった。
「私は……チーフに、店を閉めるようにと話したんです。ただ、チーフは。チーフは、マスターの帰る場所を、守りたい……オレに、守らせて欲しい、と懇願してきて。オレには、チーフの願いを、断ることなんか、できなかった……!」
テーブルの上で強く握られた拳が、白く変色していくのが見える。その拳を握る強さが、安永くんの後悔の強さのように思えた。
「チーフは……お客様に心配をさせたくないから、と……マスターが倒れたことも、入院したことも、絶対に誰にも言わないでくれ、と。頭を下げて、土下座までして、頼んで来て。オレには、頷くことしか、できなかった……。」
絞り出すように、震える声が漏れる。
「絶対に、無理だけはするな、とだけ条件を出して、オレは……チーフと約束をしました。誰にも言わないから、と。」
私の頬に涙が流れ、拭う。
それだけで、彼のシャツの袖が汚れていた理由に思い当たる。
「マスターが、がんセンターに転院した時でした。チーフがここの入院費を全額支払っていたことを知ったんです。その時に、悪い予感がして。馬鹿なことをするな、そう、言ったんですが。チーフは、このくらいしか、オレにはできないから――今回だけだから、と。」
歯を食い縛り、悔しそうに顔を歪める。
「その後は、チーフが無理をしていないか心配で、毎日のようにioriに通って。段々と痩せていくチーフに、まさか、今でも医療費を出していないだろうなと、問い質したこともあります。その度に、チーフは、そんなことはしていない、絵を描いているから忙しくて、疲れてるだけだと言って。」
噛み締めた唇から、赤いものが流れる。
「オレは……約束したから、と誰にも言わずに、何もできないでいた……。だから、だからッ!チーフが、こんなことになったのは、オレの、オレのせいなんですッ!」
上擦る声が、まっすぐに飛んでくる。
誰よりも彼自身が、自分を責めているのが伝わってきた。
「そんなオレが、チーフの力になれるなら、ならせてください、根津さん!!オレにも、チーフを助けさせて欲しいんだ……これは、オレの責任なんだ、オレが、チーフをこんな目に遭わせたんだ!オレが、オレがッ……!!」
一気に、全てを吐き出したのだろう。
安永くんはテーブルに突っ伏して、溢れる涙のままに嗚咽を漏らしていた。
握りしめた拳からは、血が滲んでいた。
その姿が、誰よりも彼自身が苦しみ、後悔していることを証明していた。
チーフとの約束と、チーフを救いたい自分との間で、ずっと板挟みになって。
私には……彼を責めることはできなくなっていた。
ただ今は、取引先ではなく――一人の友人として。
こう伝えるしかできなかった。
「わかったよ、安永くん。一緒に、彼を、彼の未来を救おう。手を、貸してくれるね。」




