父と子
ケンジとの話の後、一時間もしない内に、私は全ての仕事を切り上げチーフの元へと向かった。
あの、たった一人の背中に、全てを背負おうとした、愚かで――そして崇高な魂の持ち主に、説教をしなければならないと心に決めて。
訪れたチーフの病室は、まるで教会の礼拝堂のように静かだった。
一言も発することを許されないような、重い空気に支配されていた。
あの日から泊まり込んでいる安永くんが、伸びた髭もそのままに迎えてくれる。
先程市川先生にもお会いして、危険な状態はひとまず脱したと伺っているのに。
まだそのまま泊まり込んでいるのか。
チーフも、大学生とはいえもう成人を迎えた一人の男だ。
そこまで過保護になることはあるまいに。
枕元には林檎が剥かれていた。
ひと口も口をつけられず、既に褐色へと変色が始まっている。
ケンジが見舞いに行った、と言っていたから、その時に持参したものかも知れないな。
病人に固形物はまだ早いだろう、ケンジもまだまだだな……。
ゼリーの詰め合わせを枕元に置いて、ベッドの横の椅子に腰掛ける。
「起き上がれるようにはなったようだね、チーフ。随分と、無茶をしていたようだな。」
チーフは俯き、項垂れていた顔を持ち上げ、力無く私を見る。
腕に繋がれた点滴の管が、力なく垂れ下がっていた。
――こんなに弱々しい目をする男だったのか。
まるで、どうしてみんなでオレを責めるんだ、といじける子供にしか見えなかった。
そういえば、バーという空間の外でチーフに会うのはこれが初めてだ。
この姿を見れば、彼が大学生というのも納得できる気がした。
それは、あのioriという空間で、あの制服に身を包んでいた時の彼が――どれほどの覚悟で店に立っていたかを物語っていた。
「ケンジくんから全部聞いたよ。殴られたところは大丈夫かい?」
ケンジからは感情に任せてチーフを殴ってしまったことを聞いていた。
その後、壁を殴って拳を痛めたことまで。
まったく……よくやってくれたものだ。
荒療治かも知れないが、少しはチーフに届いただろうか。
ケンジだけではなく、皆の想いが。
チーフは一瞬目を泳がせた後、また俯いて……呟くような、弱々しい声で。
「聞い……たんですね……。ご心配おかけして、すみ、ませんでした……。」
その声色には、どこか諦めの色が浮かんでいた。
どこか、空虚に響くその声は……彼の抱えるものが、私の想像を超えて、遥かに重いものであることを予感させた。
踏み込んで良いか、瞬間逡巡する。
ここまで来たなら、と腹を決め、全部吐き出させることにした。
「店は、私が買い取る方向で考えている。ケンジを責任者として置く予定だ。もう、あの店は安泰だよ。その金で、マスターの医療費も出せる。キミが心配する必要も、無理をする必要も無くなったよ。」
チーフの目に浮かんだのは、安堵と……絶望。
「キミのしていたことは尊い、誰にも真似できない崇高な行為だよ。だが、そんなことをしなくても、店の利益は十分に出ていたはずだ。そこから出せば良かったんじゃないのか?」
そうだ。
いつ行っても、あの店は客の笑顔であふれていた。売上も、ある程度はバラツキはあっても安定していたはず。
店の立地、規模。
そこから想定される賃料、光熱費、仕入れ代、人件費。
ざっと計算するだけでも、彼が一人で背負う必要は、どこにもない。
そう、思っていたのに。
「それが――お願いしていた会計事務所さんからは、いつも赤字スレスレで、ほとんど利益は残らない、って……。だから、マスターの取り分は出ない、って、言われてて……。」
馬鹿な。あり得ない!
「書類は? 会計事務所から来るだろう、書類が! ちゃんと見たのか!」
「はい、見せてもらってはいたんですけど……。私には、良くわからなくて。専門家が言うんだから、間違いないんだ、と思って。だから、ああするしか……。」
腹の底に生まれた、ドス黒い疑念。早急に確認せねばなるまい。
だが、今ここで彼にそれを追及しても、答えは出ないまま疲弊させてしまうだけだ。
「なら――なら、何故、誰にも相談しなかった? もちろん、店の客に相談するような内容でもないだろう。キミの親には、」
「親父になんて……絶対に、言えませんよ……。」
私の言葉を遮って響くその声は、明らかに憎しみの色に染められていた。
彼の闇を覗いたようで、激しい悲しさを覚える。
同時に、心臓がギュッと握り締められたような痛みを感じる。
「バーテンダーをしていることも、伝えていません……。どうせ、あの人に言ったところで。水商売なんて始めやがって、と馬鹿にされて殴られるだけです。」
その言葉だけでも、彼の父親がどのような人間であるか――透けて見えるようだった。
自分の価値観にまみれた、くだらない世間体。それを、彼に求め、押し付けて……。
咳き込むチーフの背中をさすりながら、安永くんがコップに注いだ水を飲ませる。
その目は、私にもうこの辺で、と言っているように見えた。
迷いながらも、彼がここまで――自分を棄てた理由を聞き出さなければ。
そんな使命感に駆られて、続ける。
「……それでも。君の身に起きたことを話せば、少なからず理解は示してくれるだろう。例え同情だとしても、だ。」
チーフは静かに首を振り、悲しそうな声で呟くように続ける。
「あの人にとって、オレは『世間体』でしかないんです。自分が失敗したことのやり直しをさせるためだけの、」
モルモット。
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、思わず息を呑む。
「大学ならどこでも良いから、進学しろ……そう、言われて。」
そう言って、カウンターでは見せたことのない、哀しい笑顔を浮かべる。
「マスターの医療費を出すなんて、あの人にとっては美談でもなんでもない。ただの『厄介事』でしかない。」
厄介事、そう言った後で小さく唇が震える。
「そんな他人の人生なんて、とっとと見切りを付けて絵に集中しろ、少しは金になる絵を描けるようになれ……そう言われるだけです。人のために金を使う余裕があるなら、ここまでにオレにかけた金を返せ、と言われるのが関の山です。実際、大学に入る時にも言われてますしね。」
最後は吐き捨てるように告げて、窓の外に目を向けた。
「ましてや、あの人の前で、オレが弱音を吐くなんて、絶対に許されない。マスターに代わって店を継ぎたい、などと言おうものなら……きっと、罵倒されるだけでしょう。学業を疎かにして、バーテンダーなんかにうつつを抜かしている、と。」
彼の目には、未来への希望ではなく、親という本来なら絶対の庇護者であるはずの存在に対しての絶望と――諦めが刻まれていた。
私は、私自身が選択に迫られた際に、最後の答えを私に委ねながらも。
ただ、後悔しない選択をするんだ、と背中を押してくれた父親のことを思い出していた。
失敗するとわかっていたとしても、後悔に囚われないような選択をすれば、お前の人生はきっと豊かになる――その温かい言葉が、私の行動理念。
だが、彼の親は――子供のやりたいことを応援するのが、親ではないのか。
挑戦させてやるのが、失敗したとしてもその経験を積ませてあげるのが、親ではないのか……!
「そうか……。君は、成功しか許されない環境で育った、ということだったのか……。何かに挑戦することも許されない、そんな、環境で……。」
チーフは何も言わず、ただ、うつむくだけだった。
その表情が、私の言葉を肯定していた。
彼は、そんな親の元で雁字搦めにされたまま育てられ、相談を許されない環境にいたんだ、と。
そんな彼にとって、誰かに……周りの大人に相談して助けを求めるなんて、到底できることではなかったのだろう……。
彼にとって、まだ見ぬマスターというのが、どれ程の存在だったのか。
本物の父親よりも、父親のような存在だったのではないか。
そんな存在を失うかも知れない、その恐怖。
なんとかしてその「父親」の居場所を、帰る場所を守りたい……全てを犠牲にしても。
彼の孤独な決断の理由が、その時初めてわかった気がした。
そして……あの、店を買い取る、と言った時の絶望の意味も。
彼は、自己犠牲の中にのみ、自らの存在意義を見出せていたのだろう。
彼の境遇を思うと――胸が痛む。
あふれそうになる涙を、唾を飲み込んで堪える。
「では、学業はどうする? 店はケンジくんが守る。君は、安心して大学に戻ればいい。」
私がこれからの話をしようと、学業の話を振った途端。
チーフの肩が震え、はっきりとした絶望の色に染まる。
「――戻れません。留年が、確定しました。店のことで、前期はほとんど授業に出られなかったし。この入院で、単位が足りなくなりました。退学します。」
その声は……今にも消え入りそうだった。
「馬鹿な……留年程度で、」
「あの人は、絶対に留年を許さないでしょう。そういう、人間です。」
諦めたような、渇いた笑顔を浮かべて、続ける。
「今朝、体調を崩して入院したから、留年するかも知れないと伝えた時。学費も、今の部屋代も、もう出さないから……卒業したいのなら自分でなんとかしろ、と言われています。」
安永くんの目を見れば、そっと首を横に振っていた……まさか。
「見舞い、には?」
「私はずっとこの病室にいましたが……まだ、一度も。」
あり得ない。それが、親か……! 子供が、心配ではないのか!
「良いんです。親父からは、留年などという恥を晒すなら、もうお前は……。
用済み、
だと言われていますから。」
この青年の、これ程崇高な、悲壮な行動を。恥、だと……。貴様で追い込んでおいて。用済み、だと……!
生まれて初めて覚える激しい怒りが、私の心を支配する。
握り締めた拳に、力が入るのがわかる。
ふざけるな……! それが、親の言うことか!!
「――わかった。すまない、辛いことを話させたな。今日はもう、ゆっくり休みなさい。」
そう伝えて、入院中に必要なものを取って来てあげよう、と彼が借りているアパートを確認し、ioriに置き去りだという鍵を借りることになった。
穏やかな表情を心掛けながらも――目の前で苦しんでいる若者に手を差し伸べられなくて、何のための成功だ。
私は、この若者に何ができるのか。
それだけを考えていた。




