二人の矜持
「久しぶりだね、ケンジくん。二年ぶり、かな?」
久しぶりに会ったケンジの顔は、見違えるような表情をしていた。
あのカクテル勝負の時の、自らの技術に酔い驕った顔。
その後の、すべての自信を失い、道に迷った顔。
今の彼の顔は、そのどちらでもなかった。
胸に何か悲壮な決意を固めた、覚悟を決めた顔だ。
良い顔になったな。
どこか、チーフにも通じるものを感じた。兄弟弟子とは、ここまで似るものなのだろうか。
昨日、安永くんからもチーフが意識を取り戻したと聞いている。
時間があればすぐにでも見舞いに駆け付けようと思っていたが、私も従業員の生活を預かるという責任がある。
仕事を疎かにして駆け付けても、彼は喜ぶまい。
仕事が終わってからでは面会の時間にも間に合わない。大勢で押し掛けても迷惑を掛けてしまうし、彼の性格上、恐縮してしまうだけだろう。
落ち着いたら、ゆっくり店に行って。彼の話をしっかりと聞いてから、少し説教がてらに見舞いとすれば良いだろう。
この時まで、私はそんな風に考えていた。
目の前にいる、チーフの兄弟子の話を聞くまでは。
「ご無沙汰しております、根津様。」
その眼は揺るぐことなく、私の目を真っ直ぐに見つめて来る。
力が入り過ぎている、まるでここで命を取り合おうとしているかの様に。
「本来であれば、あれだけ贔屓にしていただいていたにも関わらず、突然店を畳んだご無礼をお詫びしたいところですが。今は、時間がありません。」
すぅ、と息を吸い込むのが見える。
「単刀直入に申し上げます。金を、貸してください。」
私の目に、失望の色が広がる。
先程の、いい面構えになった、と思ったのは私の目の錯覚か。
私は自分で言うのも何だが、成功者だ。
近隣でもいくつもの企業を運営しており、寄付もそれなりにさせてもらっている。
そして、成功者ということは、それに群がるハイエナのような人間も、数多く見ているということだ。
所詮はケンジも、成功者に群がるハイエナの一匹にすぎない男だったか。
適当にあしらって追い返そう。そして、この男のことは二度と思い出すまい。
そう、思った時。
「お願いします。必ずお返しできる、という保証はありません。虫のいい話だということもわかっています。」
金を借りようと近付いてくる人間は、皆決まって同じことを言う。
返す当てはある、
儲かる見込みはある、
絶対に損はさせない……。
聞こえの良い美辞麗句を並び立て、私の機嫌を取り、なんとか宥めすかして金を掠め取ろうとする。
――その口元に下卑た笑みを浮かべて。
だが、ケンジの目はただ真っ直ぐに私を見ている。笑いの一つも浮かべていない。
これまでのハイエナとは、何かが違う――ケンジの目に、覚悟を感じて、背中に冷たいものが伝う。
「オレには、担保にできるような財産も、信用もない、ということはわかってます。だから、もし返せない、となった時は。
――この命を持って償います。」
生命保険の証書がテーブルの上に置かれる。
比喩ではない。
本気だ。
私は、息をするのも忘れていた。
「オレは…馬鹿です。愚か者です。こんな形でしか……どうか、お願いします! オレに、金を貸してください!!」
わからない。
ケンジに、一体何があったというのか。
土下座をするようにうずくまるケンジの肩を掴み、顔を上げさせる。
ケンジの目は、赤く腫れていた。
よく見れば、その右の拳も皮が剥け瘡蓋になっている。
私は……どうしても話を聞いてみたくなった。
このプライドの塊のような男が、下らない理由で恥も外聞もなく頭を下げるはずがない。
「何が、あった。話せ。それが、金を借りる人間の最低の礼儀だろう。」
「オレは……馬鹿でした。師匠が……マスターが、あんなことになってるなんて、知りもしなかった。」
「師匠? それは、ioriの?」
「はい……その、ioriのマスターです……。マスターは今……入院、しています。」
入院、だと?
だから、見たことがなかったのか。
だが、私がioriに通うようになって、もうすぐ二年になる。
二年もの間、長期入院、というのは余程、
「膵臓癌、だそうです。発見された時には、もう手術もできないくらいに進行していたと……。」
――そんな、まさか。
チーフは、それを。
「チーフは……アイツは、最初から。マスターが倒れた日に、病院に一緒に。」
「馬鹿な……! それじゃあ、彼は、」
ケンジが頷く。
「それが……ちょうど二年程前。あの、カクテル勝負の、少し前、でした。アイツは……その時から、たった一人で、誰にも言えずに店を守っていて……。もしかしたら、オレは、オレは!」
何かを振り払うように、ケンジが頭を振る。
「アイツが! アイツが、助けてくれ、と言おうと、オレのところに来たかも知れないのに! オレは、下らない嫉妬とプライドで、あの馬鹿な勝負を挑んで! その声すら、上げさせられなかったんです……ッ!」
そんな。
馬鹿な。
その後だ、私がioriに行ったのは。
私は、あの時。
何をした……ッ!
彼が隠していた苦しみに目を向けることもなく。
偉そうに、彼を試すような真似を。
あぁ、でも、彼は、見事に私を満足させてくれたんだ。
そんな苦しみなど、一欠片も見せることなく!
彼は、私が無責任にもマスターに会いたい、と言った時。
何を思っていたのか。
どんな悲しみを押し殺していたというのか。
「そして……あの、馬鹿野郎は。チーフは……全部、犠牲にして、」
チーフ、が?
犠牲にした、だ、と?
全部?
全部、とは……何、を
「アイツは……誰にも言わずに、マスターの、医療費を、」
息が止まる。
「自分で……出してたんです……! マスターの、帰る場所を守るんだって、あの場所で、たった、一人で、戦ってたんだ……ッ!」
ケンジの拳が震える。
その拳に、涙の滴が落ちるのが見える。
「オレが、オレがッ! 何も知らずに、自業自得で、店を閉めて、修行だなんて良い気になって、あちこち出歩いていた時も……! アイツは、アイツだけは、マスターの帰りを、ただひたすらに待って……ッ!」
ケンジの声は掠れ、震えていた。
嗚咽が漏れるのが聞こえて来る。
彼の右の拳、あの皮の剥けた瘡蓋が、彼の言葉の重さを、そのまま物語っていた。
私の心は、不思議と納得してしまっていた。
栄養失調も。
絵という夢を諦め掛けてまで、彼があれだけ必死に店を守ろうとした訳も。
彼はただ。マスターが帰ってくる場所を、守って、いたんだ。
気が付けば、私の頬にも、熱いものが流れていた。
「それで……お前は、私に金を借りて、どうするつもりなんだ……。」
声が震える。
もう答えはわかっている。これはただの答え合わせだ。
「マスターに、話をしてきました。オレに、ioriを。
チーフを、頼む、と。借りた金で、オレがマスターからあの店を買い取ります。」
目に力が戻るのが見える。
「その金を、マスターの医療費に充てる。そうすれば、チーフが金を負担する理由もなくなる。あの馬鹿の未来と、マスターの帰る場所を、今度は、オレが、」
煮え滾るマグマのような熱を込めて、力強く宣言する。
「守るんです……!」
私は、成功者だ。
成功者には成功者の責務があると思っている。
未来ある若者の芽を、病なんかに潰させてたまるか。
責任を負うのは、私達年寄りの仕事だ。
この仕事は、絶対に奪わせない。
「……事業計画書を、見せなさい。」
心は、もう決まっていた。
だが、ただ金を出すだけでは足りない。
金だけ出して、無責任に放り投げるなら。
中途半端に首を突っ込んで、生殺しにする方が残酷だ。
ケンジから手渡された事業計画書をめくっていく内に、冷静な経営者の思考に切り替わっていく。
頭の中で算盤を弾く。
チーフに初めて会ったあの日に――マスターが倒れ、打ちひしがれ、悲壮な覚悟を決めていた、あの日の彼に!
独立の時には力になる、と、不躾な発言をしたくらいだ。
それに、新しくオープンした店を救ってもらった借りもある。
心情的には、いくらでも出してやりたい。そう思っていた。
だが、それではなんの解決にもならないのだ。
「数日預からせてもらう。少しくらいは待てるか?」
ケンジの目が、絶望に染まる。
「悪いようにはしないさ。この事業計画書を超える、最高の計画を立ててやる。忙しくなるぞ。」
「それじゃあ!」
「ただ、これは事業だ。採算が取れないと判断したら、手を引かなければならない――そうなれば、元の木阿弥だ。まずはioriの経営状況を確認せねばならん。」
あれだけの来客があるなら、そこまで心配はないはずだ。
それに、ケンジの腕は間違いない。そこに、あのチーフが加われば――
チーフが助言してくれた駅前のダイニングバー。
バーテンダーは一朝一夕に完成するものではないということ、そして師弟制度の重要性を、彼は教えてくれた。
建設中のホテルに併設させる予定だった、バーの責任者についても悩んでいたところだった。
上手く行けば、私にも大きな利益になる話だという匂いを、私はこの時確かに感じ取っていた。
ビジネスは、携わるすべての人間が幸せにならなければ意味がない。
「ioriは、私が買い取ろう。私が経営に参画する。何――男なら、自分のバーを持ちたい、というのは浪漫だろう? 最悪、ポケットマネーでもなんでも、私が何とかしてやるさ。」




