もう一つの病室
殴ってしまった。
こんなことをするつもりじゃ、なかった。
どうしてオレに、ひと言でいいから相談してくれなかったんだ。
そうやって、優しく言葉を掛けるつもりだった。
だけど。
もしかしたら、アイツは、オレがあのカクテル勝負を吹っ掛けたあの夜。
師匠の事を、相談しに来たんじゃなかったのか。
コンペに出すために浮かれて、ちっぽけな嫉妬から、勝負を吹っ掛けたオレに――相談できるはずもない。
あの時、もしかしたら伸ばそうとしていた、アイツの、救いを求める手を下ろさせたのは……封じ込めたのは、オレだ。
オレが、本当に殴り飛ばしたかったのは、オレ自身だった。
アイツに投げた言葉は、全部オレ自身に返ってくる。
アイツが、どれ程の苦しみの中で、オレのところに来たのか。
失望して、一人で抱え込ませたのは誰だったのか。
師匠を馬鹿にしたのは、アイツじゃない――この、オレ自身だった。
オレは、今オレが許せない。
あの、必死に師匠の帰る場所を守ろうとしていたアイツを突き放したことも。
一人にしてしまったことも。
殴ってしまったことも。
すまない……心の中で詫びながら、涙を拭う。
気が付いたら、拳を廊下の壁に殴り付けていた。
何度も。何度も。
拳が血に塗れる。
遅れて、痛みがやって来る。
その痛みが、冷静さを取り戻させてくれた。
遠巻きにオレを見詰めるナースがいる。大きな音に驚いた入院患者が顔を覗かせている。
騒がせてしまったな、とすみません、とお詫びをしながらその場を去る。
オレは、オレがやらなきゃいけないこと、今やるべき事を思い出す。
そのまま、駐車場に停めてあったレンタカーのエンジンを掛け、車を走らせた。
運転中、壁に叩きつけた拳がジンジンと熱を持ち、脈動に合わせて鈍い痛みを訴える。
その痛みが、オレの頭の中のノイズを打ち消す鎮痛剤のようだった。
チーフのあの細くなった身体、その上で殴ってしまった感触、そして安永さんの驚きの顔が、何度も脳裏にフラッシュバックする。
こんなことをするために、オレは修行を辞めてきたんじゃない。
オレにできる、師匠と弟弟子、二人の誇りと未来を守るための選択をしなければならない。
例えどれ程残酷な選択だとしても。
この痛みを、その覚悟に変えなければ。
――一時間程車を走らせて着いたのは。
国立がんセンター。
師匠の入院先だった。
先に事情を知っていた横山マスターから病室は聞いてあった。
真っ直ぐに病室に向かう。
ノックをして、返事を待つ。
昔、毎日聞いていた懐かしい声が聞こえる。
恐る恐るドアを開けると、記憶の中にあった姿よりは一回り小さくなった、師匠の姿だった。
「おお、ケンジか。久しぶりだな。お前も、聞いたのか。」
意外と元気そうな声だ。
だけど、微かに震える声が、病魔の恐ろしさを告げていた。
「お前、今何やってんだ?店閉めて、何処ほっつき歩ってんだ。――何だ、喧嘩か?」
オレの拳から流れる血を見て、師匠が呆れたように告げる。
「ったく……血の気が多いのは変わらんな。あれ程言ったのに、まだわからんのか。お前の拳は、誰かを傷付けるためにあるんじゃないんだぞ。誰かを癒すための、一杯にお前の魂を込める。そのための大切な手なんだ。この……馬鹿者が。」
ああ……変わらないな、師匠は。
止まったはずの涙が、もう一度頬を伝う。
この人は……オレの弟弟子が何をしているのか、知らないのだろうか。
全部、話してしまおうか。
師匠から、あの馬鹿を叱ってもらおうか。
「何を泣いてるんだ、馬鹿モンが。私はまだほれ、この通りピンピンしとるわい。勝手に殺すな、馬鹿タレが。」
身体中に転移していると聞いている。
もう残された時間は僅かで、身体中が痛いはずだと言う。
でも、師匠はひと言も弱音を吐くこともなく、医師やナースにも痛みを訴えることはないらしい。
――この人が、あの馬鹿にあんな事を頼むはずが、ない。
「あの、」
その時だった。師匠の目が、見たこともない寂しそうな目に変わる。
「なぁ、ケンジ……店は、オレの店は、どうなってる?」
あぁ……アイツが、あんな無理をしてまで。
店を守ろうとした理由が、一瞬でわかってしまう。
師匠にとって、あの店は、治療を頑張るための、生きる目的そのものなのだ。
「チーフは、元気にしているか……? アイツは、無理しとらんか? ちゃんと飯食っとんのか、あの子は。」
師匠の、言葉が……胸を締め付ける。
すみません、オレは、アイツを……殴ってしまいました……。
でも、だからこそ、オレはやらなきゃいけない事がある。オレの敬愛する師匠に、言わなきゃいけない事がある。
「マスター……。折り入って、話があります。マスターの、あの店を……ioriを。
――オレに売ってください。」
震える声を必死で抑え込んで。
師匠の、大切なあの店を……帰る場所を、オレに寄越せ、と残酷な選択を強いる。
なんて言われるだろう。
怒られるかも知れない。
俯きそうになる顔を、ちゃんと返事を聞かなきゃ、と前を向いて師匠の目を見る。
ふと、その目にひと雫の光が見えた。
そのまま、師匠は拗ねたようにそっぽを向いて。
吐き出すみたいに呟く。
「そう、か……そう、だなぁ……。お前に、買ってもらうか。それが、一番いいかも知れないなぁ……。」
次の言葉は、不思議と……力強く、オレの鼓膜を震わせた。
「なぁ、ケンジよ。頼みが、ある。」
「はい……。」
これは……きっと、死に往く者の願い。
師匠の、最期の願いだ。
「店と……あの子を、頼む。
あの子は、危ういところがあるから、なぁ……。無理をしてないか、お前が、見てやってくれないか?」




