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殴打

一度目を覚ました後、チーフは再び深い眠りについたようだった。


うなされる事もなく、安らかに眠っている様子は、年相応の子供にしか見えない。


どれ程の想いで、彼はこの二年近くの時間を過ごして来たと言うのだろう。

あの日、マスターが倒れた日――パニックになった彼を支えながら、この病院を訪れた夜のことを……今でも昨日のように思い出す。


いつも老けてるだの言って揶揄っていても。

年齢的には息子であってもおかしくないくらいの、まだまだ子供なんだということを、あの日オレはまざまざと見ていた。


すべてを知る者として、オレには協力する義務があると思っていた。

支援を申し出たのは、自然な流れだった。

まだ世間のことを知らない彼なら、きっと頼ってくれると思っていた。


だけど。


彼はオレの申し出を断り、代わりに全てを秘密にしてくれ、と頼んで来た。


転院の話が決まった時もそう。

マスターの入院代が、チーフの財布から出ていることを知った時は、何をしているんだと怒鳴りつけてしまったほどだ。


マスターに子供はいなかったはずだ。

オレには、マスターがチーフのことを見る目が、まるで歳の離れた父親のように、映っていた。


オレにもチーフとは雲泥の差とは言え、不肖の息子がいる。

オレが息子にこんなことをされても嬉しいとは思わない。そう伝えた。


だが――チーフの目は覚悟に染まっていて。


オレから、マスターに恩返しをするチャンスを奪わないでください。

そう言われて、何も言えなくなってしまった。


この二人に……何があったんだろうか。

二人の関係に想いを馳せる。



百瀬くんと根津さんには電話で報告をした。

二人とも安堵した声で、良かった、と言っていた。


本来なら、根津さんとは契約のことで話をする必要があったが、根津さんも気が気ではないのだろう。


そんなものはいつでも構わない、今はチーフの側にいてやって欲しい、何かあればすぐに連絡してくれ――そう言っていた。


チーフは、根津さんにとっても既に特別な存在になっていたようだった。


「馬鹿野郎が……。まったく、心配ばかり掛けやがって……。」


倒れた瞬間のことを思い出すと、今でも涙が溢れてくる。

バックヤードから響く、鈍い音。

狼狽した百瀬くんの声。


生きた心地がしなかった。


コンコン、とノックの音がした。

誰だろう。

百瀬くんと根津さんには連絡したばかりだし、気を使ってかもう少し落ち着いてから見舞いに行く、と言っていた。

医者が何か言い忘れたことでもあったのだろうか。


チーフを起こさないように、ドアに向かいそっと開ける。


そこにいたのは……昔チーフとのカクテル勝負で店を閉めた、Kの元マスター。


チーフの兄弟子だった、ケンジ、と呼ばれていた男。


どうして、ここに。


「安永さん……ご無沙汰しております。横山マスターから、聞いて。ウチの弟弟子が、すみません。」


ケンジは殊勝にもそう言いながら病室へと足を踏み入れる。


意趣返しかとも思ったが、違うようだ。

そんなことをしに来たんなら、オレがぶん殴るところだった。


「まだ、寝てるのか……。この、馬鹿は……。」


絞り出すような声を漏らしながら、見舞いの品だろうフルーツを枕元に置く。

 

そうだ。

チーフの店のマスターは、ケンジにとっても師匠だ。何も知らされてなかったのだろう。


悔しそうに震える拳が、膝の上で震えていた。


う、うん……そんな小さな呻き声を上げて、チーフがゆっくりと目を開ける。


「ケンジ、さん……安、永様も……。」


起き上がりそこまで言って咳き込む……無理もない、喉が渇き切っているのだろう。


ケンジが慌てて水差しからコップに注いで手渡す。

受け取り、一気に飲み干した喉が上下するのが見える。少し咽せながら、ありがとうございます、と返す声にはいつもの力強さを感じない。


チーフが、身体だけではなく、心までもが弱っている事が手に取るようにわかる。


ケンジが、甲斐甲斐しくチーフの背中をさする。


「大丈夫か? 無理しなくていい。」


ケンジのそう言う目が潤む。


「こんなにまで……痩せ細って……!」


Kの閉店にチーフが関わっているとしても、間違いなく弟弟子、ということか。

ケンジが、チーフを思う気持ちが痛い程伝わってくる。


少し落ち着いたのか、チーフがありがとうございます、と告げて溜息を吐き出す。


「すみません……ケンジさんにまでご心配をおかけして……。ご迷惑を、」


「良いんだ、心配すんな。お前、後で横山マスターにちゃんとお礼しろよ。Yから人連れて、店回してくれてるんだかんな?」


「すみません、はい、もちろん。退院したら、真っ先に向かいます。」


そのまま、お互いに次の言葉を探すような沈黙が下りる。


「ケンジ君。横山さんから聞いたと言っていたが……彼は、何と?」


頭を掻きながらこちらを振り返り、ケンジがバツの悪そうに応える。


「いや、その……お前は、師匠と弟弟子が大変な時に、何処をほっつき歩いてるんだ、と怒られまして……。事情を聞いて飛んで来たんです。」


オレはKに行ったことはなかったが、マスターの下で働いていた時に面識があった。

チーフが入る前だから――もう、五年ぶりだろうか。


「一昨日の夜中にその連絡を受けて。今は短期間で色んな店で修行させてもらってたんですが、世話になってたところに、昨日慌てて話して来まして。辞めて来ました。」


「辞めて、って……どうする気だい、一体。」


そう聞くと。

ケンジは、少し考えるように俯いた後、オレの目を見る。

何か覚悟を決めた目だ。


「それを答える前に、コイツに確認しなきゃならない事があるんです。」


そう言って、再びチーフに向き直る。

言い淀むように、指を何度も組み直す――そして。


「横山マスターが、帳簿に挟まれてたメモのことも話してくれた。なぁ……お前、


マスターの医療費、全部出してた、ってのは……本当か?」



思わず目を見開く。

身体中を雷で撃たれたような衝撃を覚える。


馬鹿な……あの、転院の時だけだと思っていた……そんな、馬鹿な。

だが、そうだとすれば、チーフのこの困窮も、痩せ細った姿も、説明がつく。


何より、衝撃を受けたように固まったまま、何で、どうして、と呟くチーフの姿が、それを事実だと告げていた。


「なぁ……ちゃんと、お前の口から。答えろよ。」


顔を背け、唇を噛み締め、何も言うまいと俯くチーフ。

薄く血が滲む……どれ程の力で、その歯を食いしばっているというのか。


「なぁ。お前にとって師匠かも知れないがな。お前、忘れてないか? オレにとっても、師匠なんだぞ、マスターは。


オレには、」


ゴクリ、とケンジの喉が動く。


「すべてを、知る権利があるはずだ。」


重い空気が病室に満ちる。


永遠とも思えるその沈黙を破ったのは、チーフの小さな、本当に小さな呟きだった。


「……はい。」


ケンジが、その返事を聞いて、フゥ、と溜息を漏らす。

 


次の行動は、止める間もなかった。

チーフの胸ぐらを掴み、一発。


殴ったのだ。


慌ててケンジの背後から羽交い締めにする。

弾みで、点滴のスタンドが大きく音を立てて揺れる。


「何やってんだ! チーフは病人だぞ!」


チーフは唇を切ったのか、先程よりも血が流れて咽せる。


その顔は殴られた衝撃のまま――俯いていて感情は見えない。

固く歯を食いしばる様子が、痛々しかった。


そんなオレに構うこともなく、ケンジが怒鳴る。


「テメェは……馬鹿だ! 大馬鹿野郎だ! マスターがお前に頼んだのか! 金を出してくれと、ひと言でも言ったのか!」


羽交締めにしたオレの手に、一滴の雫が落ちる。


ケンジは……泣いていた。


「マスターがそんなこと……そんなこと、お前に望むはずがないだろう! マスターを馬鹿にするな! オレの師匠を、馬鹿にするんじゃねぇ!」


そう告げて、ケンジは病室を飛び出して行った。

取り残されたオレは、突然の成り行きに驚いていたが……ケンジの気持ちは、痛いほど伝わってきた。



チーフは、俯いたまま、何も語らない。 

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