番外編 三十七通の礼状(ジャスパー視点)
北の領地の館に来てから、ジャスパー・ハーコートは、夜がこんなに長いものだと初めて知った。
昼のあいだは、代官の後ろについて倉を回り、麦の袋に付けた札を帳簿と突き合わせる。王都の屋敷では開いたこともなかった帳簿の、細かい字の列を、指でたどって写していく。代官は父よりも口数が少なく、写し間違いを見つけると、黙ってその頁を差し戻した。
夜になると、することがなかった。館には遊び仲間も劇場もなく、彼を見て囁く令嬢もいない。書棚にあるのは、古い年貢の控えと農事の暦だけだった。
父からの包みが届いたのは、そういう夜だった。
油紙をほどくと、手紙の束が出てきた。紐で一つに括られ、どの封筒にも小さな鈴蘭の封蝋が押してある。王都の机の引き出しに、放り込んだままにしていたものだ。束の上に、父の字で紙が一枚載っていた。
読め。
それきり、何も書いていなかった。
ジャスパーは束を机に置いて、しばらく眺めた。晩餐会の大食堂で、この手紙の写しが読み上げられ、皆が笑った。あの笑い声が、まだ耳の奥に残っている。
ほかに読むものはなかった。
彼は紐を解き、束のいちばん下にあった、いちばん古い一通の封を切った。
ジャスパー・ハーコート様
本日は、お忙しいなか、お時間をいただきありがとうございました。
お話の途中で、ジャスパー様は何度か窓の外をご覧になっていました。門の脇に栗毛の馬がつないでありましたので、きっと馬がお好きなのだと思いました。毛並みのつやで、大切にされている馬だと、わたくしにも分かりました。
次にお目にかかるときは、あの馬のお名前を伺えましたら嬉しいです。
リディア・ペンブルック
ジャスパーは、便箋を持ったまま動けなくなった。
覚えている。婚約して最初の面会だった。父に言われて仕方なく伯爵家へ行き、紅茶が冷めないうちに席を立った。窓の外を見ていたのは、早く帰りたかったからだ。馬をつないでおいたのは、帰りにそのまま遠乗りへ出るつもりだったからだ。
あいつは、それを「馬がお好きなのだ」と書いていた。
* * *
ジャスパーは次の封を切り、その次の封も切った。
どの礼状も、同じ形をしていた。面会のあいだに彼が言ったこと、したことを、一つずつ拾って書いてある。新しい手袋の色を褒められて、少し得意になったこと。狩りの話をしかけて、途中でやめたこと。冷めた紅茶を、黙って飲み干したこと。
自分では覚えてもいない言葉が、あいつの字で、彼のしたこととして書き留めてあった。
そして、どの礼状も、最後に小さな問いを一つ置いていた。
次は、狩りのお話の続きを伺えましたら。
次は、あの手袋をどちらでお求めになったのか、伺えましたら。
ジャスパーは、一つも答えていなかった。答えるも何も、封を切ったのは今夜が初めてだった。
燭台の蝋燭が短くなっていく。彼は手を止めなかった。
ある礼状で、指が止まった。
本日は、ミレーユも同席させてくださり、ありがとうございました。ジャスパー様があのように笑われるのを、わたくしは初めて拝見しました。
責める言葉は、どこにもなかった。その後には、ミレーユが彼の好きな焼き菓子をよく知っていたことまで、丁寧に書いてあった。
次の礼状を開けた。面会のお礼。彼が言ったこと。彼がしたこと。具体的で、丁寧で、いつもどおりだった。
ただ、最後の問いがなかった。
その次にも、その次の次にもなかった。あの日から、あいつは彼に何も尋ねなくなっていた。
最後の一通は、夜会の夜の日付だった。
本日は、婚約破棄を賜り、ありがとうございました。
晩餐会で読み上げられたのと、一字も違わなかった。婚約してから贈り物をいただいたことは一度もなかったので、これが初めての贈り物です、大切にいたします、と続いている。
ジャスパーは便箋を伏せた。
あいつは、彼が一つも答えないうちは尋ね続け、ある日から尋ねるのをやめた。それでも、礼状だけは届き続けた。そのあいだに彼があいつへ贈ったものは、最後の一つきりだった。それが、これだった。
夜が明けるまで、彼は机の前から動かなかった。
* * *
ミレーユが北へ来て、館の小さな礼拝堂で式を挙げた後、冬は日ごとに深くなった。
ミレーユは、北の寒さに毎日文句を言った。王都から持ってきたドレスはどれも薄く、代官の奥方が貸してくれた毛織の肩掛けを野暮ったいと言いながら、一日じゅう手放さなかった。侯爵夫人になるはずだったのに、と口にする日もあった。
ある夜、部屋に入ってきたミレーユが、ジャスパーの机の上を見て眉をひそめた。
「また、お姉様の手紙を読んでいるの?」
ジャスパーは答えなかった。一番古い一通から順に、もう何度目か分からないほど読み返していた。
「燃やしてしまえばいいのに。こんなものがあるから、ジャスパー様はいつまでも――」
ミレーユが一通をつまみ上げ、暖炉の方へ向き直った。
ジャスパーは立ち上がり、その手首をつかんだ。
「触るな」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
ミレーユの大きな目に、みるみる涙が溜まった。唇が震え、肩が小さくすくむ。夜会の大広間で、彼の腕の中で見せたのと同じ顔だった。あのとき彼は、この顔のために、確かめもせずに叫んだのだ。
ジャスパーは何も言わずに、彼女の指から便箋を取り返した。
慰めの言葉が来ないと分かると、ミレーユの涙は、すっと引いた。頬を拭いもせずに肩掛けを引き寄せ、彼女は部屋を出ていった。
涙がああも早く止まるものだということを、ジャスパーは初めて知った。
* * *
春の初めに、父から手紙が届いた。
北での務めについての短い言葉の後に、一行だけ、こう書いてあった。
リディア嬢とフィッツロイ公爵の婚礼は、秋、大聖堂にて挙げられる。
ジャスパーは手紙を畳み、机の引き出しを開けた。
礼状の束の上に、便箋が一枚入っている。冬のあいだに何度も書きかけては、宛名の一行から先へ進めなかった便箋だった。何をいただき、どう嬉しかったかを、具体的に。そう書こうとするたびに、自分があいつから受け取ったものを、何一つ見ていなかったことに行き当たった。
彼は便箋を広げ、ペンを取った。
馬の名前なら、書ける。




