番外編 鴨のいる方へ
翌年の初夏、リディアは王妃の園遊会の庭を、婚約者の腕に手を添えて歩いていた。
芝生には白い天幕が張られ、楽団が木陰で弦を合わせている。すれ違う人々は、まずエイドリアンに頭を下げ、それから隣のリディアに、少し遅れて、もう少し深く頭を下げた。
父と継母の姿はない。宮廷に招かれない一年は、まだ明けていなかった。ミレーユは北の館にいる。
「リディア様」
天幕の陰から、令嬢たちが扇を胸に連れ立って寄ってきた。秋の夜会の大広間で、ミレーユの涙に「お可哀想に」と呟いていた顔も、その中にあった。
「あの、礼状の書き方を、教えていただけませんか」
収穫の晩餐会の読み上げからこちら、宮廷では礼状が流行っていた。夜会の翌朝には、主催の家に具体的な礼状が届く。具体的すぎて、届いた家の方が困ることもあるらしい。
「母に書いたら、叱られてしまったのです」
いちばん若い令嬢が、頬を赤くして打ち明けた。
「昨夜のお夕食のスープが少し塩辛くて、おかげでお水がたくさん飲めました、と書いたら」
リディアは、少し考えてから答えた。
「何をいただいたかは、とても具体的ですわ。どう嬉しかったかが、まだ書いてございませんのね」
令嬢たちは顔を見合わせ、それから真剣な顔で頷いた。帳面に書き付けている者までいる。
令嬢たちが離れていくと、エイドリアンが小声で言った。
「典礼院にも、近ごろは毎朝届きます。コリンが、読む方が追いつかないと嬉しそうに嘆いていました」
「わたくしのせいでしょうか」
「おかげです」
エイドリアンは、表情一つ変えずに言い直した。
* * *
池へ向かう小道の途中で、小さな影が二人の前に立った。
まだ幼い少女だった。淡い色のリボンで髪を結い、小さな手でドレスの裾をつまんで、教わったとおりの礼をしている。少女は家の名と自分の名を、一つずつ確かめるように名乗った。
エイドリアンは足を止め、芝の上に片膝をついた。少女と目の高さをそろえ、名乗り返し、礼を返す。
「声をかけてくださって、ありがとうございます」
少女は目を丸くし、それから嬉しそうに頬を染めて、母親のところへ駆け戻っていった。少し離れて見ていた母親が、恐縮して何度も頭を下げている。
リディアは、その小さな背中を見送った。
あの初夏の楡の木陰でも、やはり小さな令嬢がこうして礼をしたのだろう。そのとき少年が何と言ったのかを、リディアは求婚の手紙で知っている。目の前で膝の芝を払っているのは、その少年が長い年月をかけてなった人だった。
「閣下。今のは、わたくしが何をいただいたことになるのかしら、と考えておりました」
「答えは出ましたか」
「まだですわ。礼状を書くまでには、出します」
エイドリアンは立ち上がり、楡の木の向こうを見た。
「では、もう一つ、材料を増やしてもよろしいですか。……鴨のいる方へ、行きませんか」
* * *
楡の木の先に、池があった。日傘を持ったネルが、声の届かないくらいの距離を置いて付いてくる。
池のほとりで、エイドリアンは上着の内側に手を入れ、白いナプキンの包みを取り出した。開くと、小さく切ったパンが入っていた。
「……閣下。それを、ずっとお持ちだったのですか」
「朝から」
リディアは、こらえきれずに笑ってしまった。王宮一隙のない人の上着から、パンが出てきた。
エイドリアンはパンを一切れ、リディアの手のひらに載せた。
「あの翌年の園遊会で、一度ここへ来てみました。鴨は二羽しかいませんでした。あなたも、いませんでした」
リディアは、パンを持ったまま池を見た。思い出すのに、少しかかった。
「その年は、母が床についておりました。わたくし、園遊会には行かずに、母の枕もとで本を読んでいたのです」
エイドリアンは、何も言わずに頷いた。それから、少しだけ声を明るくした。
「足の悪い鴨は、あの後も何年か、この池にいたそうです」
「……お調べになったのですか」
「庭師に聞きました。記録に残らないことは、人に聞くしかありませんので」
リディアはもう一度笑い、パンを小さくちぎって池に投げた。
鴨が寄ってくる。水を蹴る音が重なり、輪がいくつも広がった。その輪の後ろから、一羽だけ、少し遅れて泳いでくるのがいた。
その一羽を見たとき、リディアの胸の奥で、何かがほどけた。
思い出したのは、少年の顔ではなかった。母の声だった。
――それで、その方は、鴨のいる方へいらしたの?
あの年の園遊会の日、床についた母の枕もとで、リディアは前の年の話をしたのだ。足の悪い鴨のこと。木の下で一人つまらなそうにしていた年上の方のこと。礼状に、次は鴨のいる方へ来てくださいと書いたこと。母は笑って、そう尋ねた。
まだです、と答えた気がする。
「リディア?」
エイドリアンが、こちらを覗き込んでいた。リディアは首を振り、遅れてきた一羽の前に、いちばん大きな一切れを落とした。
「母に、お返事ができましたの」
エイドリアンは少しのあいだ黙っていて、それから、残りのパンを全部リディアの手に移した。
* * *
天幕へ戻る途中で、王妃が二人を見つけて扇を上げた。
「池にいたのね。エレノアの娘が、鴨にパンをやっているのが見えたわ」
王妃は二人を見比べ、秋の婚礼の話をした。
婚礼は、父と継母の一年が明ける秋まで待つことになっていた。花嫁の両親が招かれない婚礼を挙げれば、いつまでもリディアの方が噂の種になる。そう言って、エイドリアンが決めたのだった。
「婚礼の朝は、わたくしが行くわ」
王妃は扇を閉じ、リディアの首元に目をやった。今日は、真珠を着けてきていない。
「エレノアとの約束があるの」
* * *
その夜、リディアは便箋を広げた。
何をいただいたかは、もう決まっていた。
フィッツロイ公爵閣下
本日は、鴨のいる方へいらしてくださり、ありがとうございました。




