番外編 返事の書き方(エイドリアン視点・後編)
王妃の居間で夜会の報告を終えたエイドリアンの前で、王妃オルタンスは返事を書いて封をし、女官の顔を見回した。
エイドリアンが「私が届けます」と申し出たとき、王妃は少しだけ目を細めた。そして封書を渡しながら、女官たちに聞こえない声で言った。
「あなたが行くべきよ。十一年も、鴨の礼状を捨てられずにいる人が」
エイドリアンは、封書を取り落としかけた。
「……どなたから、それを」
「あなたのお父様。あの方、鴨の礼状の話を、わたくしに何度もしたわ。そのたびに、息子がそれを引き出しにしまうところまで見た、と涙が出るほど笑っていた」
王妃は茶器を持ち上げ、何事もなかったように微笑んだ。
「首飾りのことは、わたくしが預かります。あれはね、エレノアが、あの子の嫁ぐ日に着けさせてと言い残したものなの。……あなたは、あなたの用件を済ませていらっしゃい」
* * *
翌朝、ペンブルック伯爵家の玄関で、エイドリアンは真珠の首飾りを見た。
継母に呼ばれたミレーユという令嬢が、それを着けて膝を折っていた。王妃が亡き友の婚礼に贈り、その友が娘の嫁ぐ日にと言い残した首飾りを、何の由来も知らない顔で。
腹の底が冷えた。だが、それを裁くのは典礼卿ではない。王妃が預かると言ったのだ。エイドリアンは首飾りから目を外し、リディアに会いたいとだけ告げた。
客間で鴨の一文を口にしたとき、リディアの頬がゆっくりと赤くなっていった。思い出したのではないことは、すぐに分かった。それでも、自分が書きそうな一文だと分かって赤くなる人なのだと思うと、エイドリアンは顔を引き締めておくのに苦労した。
その翌日、鈴蘭の封蝋の礼状が届いた。
王妃陛下のお返事を届けてくださったお礼。わざわざ足を運んでくださったお礼。鴨の件を覚えていなかったお詫び。そして最後に、一文が添えてあった。
鴨が三羽、などと書いた子どもの礼状を、ずっと覚えていてくださったことに、お礼を申し上げます。書いた本人が覚えておりませんのに。
エイドリアンはその一文を、執務室で四度読み、帰りの馬車でもう一度読んだ。
* * *
エイドリアンの求婚の手紙の書き損じは、三十七枚になった。
最初の一枚は、公爵家の家格と領地の広さから書き始めて、数行で破った。次は、これまでの思いを書こうとして、便箋の裏まで埋まったところで破った。その次は、詩人の言葉を借りかけて、自分の字で書くのが恥ずかしくなって破った。
ある夕方、書記官のコリンが決裁の書類を持って執務室に入ってきて、屑籠を見た。
屑籠からあふれた便箋が、床に小さな山を作っていた。
コリンは何も言わずに書類を机に置き、屑籠の脇に、空の屑籠をもう一つ置いて出ていった。
エイドリアンは、しばらくその空の屑籠を見つめていた。
それから、屋敷から持ってきていた彼女の礼状を、机に並べた。子どものころの鴨の礼状と、訪問のお礼状。どちらも、飾った言葉は一つもない。何をもらい、どう嬉しかったかが、具体的に書いてあるだけだ。
三十八枚目は、短く書けた。
* * *
やがて、婚約の解消の届けが典礼院に回ってきた。両家の当主の署名がそろっていることを確かめ、エイドリアンは判を押した。今度は、手は止まらなかった。
翌日、彼はその一枚を持ってペンブルック家を訪ねた。
手紙を読み終えたリディアは、しばらく顔を上げず、それから上ずった声で言った。
「お返事は、三日のうちに」
言ってから自分で口を押さえたその顔を見て、エイドリアンは笑ってしまった。声を立てて笑ったのは、何年ぶりか分からなかった。
その翌日の昼前、公爵家の玄関に、書簡便で鈴蘭の封蝋の手紙が届いた。
封蝋を切る指が、少し震えた。便箋は一枚。本文は一行だった。
謹んで、お受けいたします。
いつも便箋を三枚は使う人が、一行だけ書いてきた。その意味を考えて、エイドリアンは書斎の椅子に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
やがて彼は机の一番上の引き出しを開け、黄ばんだ鴨の礼状と訪問のお礼状の上に、その一行を重ねた。
* * *
そして、収穫の晩餐会。
ジャスパー・ハーコートが革の帳面を掲げ、侯爵と王妃への手紙の写しだと言ったとき、エイドリアンには、それがリディアの控え帳だと分かった。あの家の娘は、書いた礼状を必ず写す。そして、写されているのは、嘘を一行も含まない礼状だ。
国王に名を呼ばれ、彼は控え帳を受け取った。
読み上げは、典礼卿の務めの中でも慣れた仕事だった。勅書も、叙任の文言も、表情を変えずに読んできた。
それでも、ジャスパー宛ての礼状は危なかった。
三年の間、月に一度、十五分ものお時間を割いてくださったことにも、改めて感謝申し上げます。
読みながら、「十五分もの」のところで喉の奥が鳴りかけた。エイドリアンは大食堂の天井の燭台に目をやり、蝋燭を端から一本ずつ数えた。四十八本。数え終える頃には、文の終わりまで声を平らに保てていた。
大食堂が笑いに崩れたのは、そのすぐ後だった。
「で、典礼卿。お前の届けはどうなっておる」
国王にそう聞かれたとき、エイドリアンは控え帳を閉じた。
三年前、同じ判で、彼女と別の男の婚約を受理した。そして先日、次席の確認を経て、自分と彼女の婚約に、最後の判を自分で押した。
「四日前に受理いたしました。私が、自分で」
言えたことが、少しだけ誇らしかった。
* * *
晩餐会の夜、エイドリアンは公爵家の書斎で、新しい便箋を広げた。
あの園遊会で、彼女から礼状を受け取った。それから数えきれない礼状を読んできたが、求婚の手紙という返事は書いても、自分から彼女に礼状を書いたことは、一度もなかった。
何をいただいたか。どう嬉しかったか。具体的に。
あなたが「どうぞ、読み上げてくださいませ」と言ったとき、背筋を伸ばしたその姿が、大食堂の誰よりもまっすぐだったこと。真珠の首飾りが、ようやく持ち主の手に戻ったこと。一通は私に、と囁いたら、あなたが小さく頷いてくれたこと。
書き終えて、彼は封蝋を温め、宛名を書いた。
リディア・ペンブルック様
本日の晩餐会のお礼を申し上げます。三日のうちに、と教わりましたので。
番外編までお読みいただき、ありがとうございました。
楽しんでいただけましたら、ブックマークと、下の☆での評価で応援していただけると嬉しいです。




