番外編 最初の礼状(エイドリアン視点・前編)
十一年前の初夏、まだ少年だったエイドリアン・フィッツロイは、王妃の園遊会で退屈していた。
公爵家の跡継ぎとして、父に連れられて来ただけだった。大人たちは庭の花を褒め、令嬢たちは扇の陰でこちらを見て囁き、同じ年頃の令息たちは馬と剣の話しかしない。エイドリアンは、そのどれにも加わる気がなかった。自分はいずれ公爵になる人間で、ここにいる誰よりも上に立つのだと、当たり前のように思っていた。
楡の木陰で一人立っていると、小さな影が近づいてきた。
「ペンブルック伯爵家のリディアと申します。はじめまして」
淡い金の髪をきっちりと結った、まだ小さな少女だった。小さな手でドレスの裾をつまみ、教わったとおりの礼をしている。
エイドリアンは、相手の顔もろくに見なかった。
「子どもは向こうへ行け」
少女は一度まばたきをして、小さく首を傾げた。それから、もう一度きれいな礼をして、言われたとおり、向こうへ歩いていった。向こうには池があった。
エイドリアンは、そのことを夕方には忘れていた。
* * *
二日後の朝、エイドリアンの朝食の席に、鈴蘭の封蝋の手紙が届いた。
先に父がそれを受け取り、宛名を見て片眉を上げ、エイドリアンに回してきた。子どもの大きな字で、一字ずつ丁寧に書いてあった。
フィッツロイ公爵家 エイドリアン様
おととい、王妃様のお庭で、子どもは向こうへ行くようにとお教えくださり、ありがとうございました。
向こうには池があり、鴨が三羽おりました。一羽は足が少し悪くて、ほかの鴨より遅れて泳いでいました。わたくしがパンを小さくちぎって投げると、その鴨が、いちばんたくさん食べました。おかげで、鴨と仲良くなれました。
エイドリアン様は、お一人で木の下にいらして、つまらなそうでしたので、次は鴨のいる方へいらしてください。足の悪い鴨は、遅いけれど、ちゃんと来ます。
リディア・ペンブルック
読み終えたとき、エイドリアンは顔から火が出るかと思った。
嫌味ではなかった。少女は本当に向こうへ行き、本当に鴨と仲良くなり、本当に、一人でつまらなそうな年上の少年を心配していた。そのことが、どんな叱責よりも堪えた。
向かいで、父が手紙を取り返して読み、肩を震わせて笑い出した。
「お前は、八歳の子に礼儀を教わったな」
父は涙を拭きながら、手紙を息子の前に戻した。
「ペンブルック家の大奥様の躾だろう。宮廷で礼状の名手と言われている方で、いただいたものには三日のうちに礼状を書かせるそうだ。……エイドリアン、次は鴨のいる方へ行ってみなさい」
その手紙を、エイドリアンは捨てられなかった。自室の引き出しにしまうところを父に見られ、また笑われた。
翌年の園遊会で、彼は池のほとりへ行ってみた。鴨は二羽しかいなかった。少女は、その年は来ていなかった。
それからエイドリアンは、誰にでも名を名乗られたら名を名乗り返し、礼をされたら礼を返すようになった。何年もかけて、それは彼の習いになり、宮廷は彼を「王宮一礼儀正しい男」と呼ぶようになった。始まりが小さな少女の礼状だったことを、彼は誰にも話さなかった。知っているのは、あの朝食の席で笑った父だけのはずだった。
* * *
三年前、父が亡くなり、エイドリアンは爵位と典礼卿の任を継いだ。父の書斎を継いだとき、鴨の礼状も、書斎の机の一番上の引き出しに移した。
任を継いで間もない春、典礼院の執務室に、一通の婚約の届けが回ってきた。ハーコート侯爵家の嫡男ジャスパーと、ペンブルック伯爵家の長女リディア。両家の当主の署名がそろい、書式にも誤りはなかった。
判を押す手が、一度だけ止まった。
止まった理由を、エイドリアンはそのとき自分でもうまく言えなかった。届けに不備はない。止める権限もない。彼は判を押し、届けを綴じた。
喪が明けてから、縁談がいくつも来た。エイドリアンはそのすべてを断った。断った理由も、うまく言えなかった。
典礼院には、彼が任を継ぐ前の年から、夜会のたびに鈴蘭の封蝋の礼状が届いていた。社交界に出たばかりの令嬢が、父の代の典礼院に宛てて書き始めたものだった。宛名は「典礼院の皆様」。蝋燭の芯が短く切りそろえてあって、煙が目にしみなかったこと。控えの間の暖炉が早めに焚かれていたこと。楽団が三曲目の前に少し休んでくれたこと。
「閣下。また、ペンブルック家のリディア様からです」
書記官のコリンが、嬉しそうに封筒を掲げる。礼状は書記官たちの間で回し読みされ、最後にエイドリアンの机に来る。エイドリアンはそれを読み、屋敷へ持ち帰って、書斎の一番上の引き出しにしまった。典礼院の記録に綴じる決まりのない、礼状だったからだ。
* * *
そして、あの秋の夜会。大扉の脇に立っていたエイドリアンの耳に、ジャスパー・ハーコートの声が届いた。
国王陛下と王妃陛下が退出された後のことだった。拳を握ったのは、自分でも気づかないうちだった。
典礼院は、場の秩序を預かる。だが、家と家の私事を裁く権限はない。手を上げた者がいれば止められるが、言葉だけなら、典礼卿が口を挟む筋はない。父から受け継いだその線を、エイドリアンは任を継いでから、一度も踏み越えたことがなかった。
だから、見ていることしかできなかった。
広間の真ん中で、リディアは扇を閉じ、少し首を傾げた。
その首の傾げ方に、エイドリアンは見覚えがあった。
あの日、楡の木陰で「子どもは向こうへ行け」と言われたとき、少女も一度まばたきをして、同じように小さく首を傾げた。怒っても、泣いてもいない。ただ、今いただいたものが何なのかを、真剣に考えている傾げ方だった。
「承りました。後日、改めてお礼を申し上げます」
広間がざわめいた。報復の予告だと囁く者がいて、負け惜しみだと笑う者がいた。
エイドリアンだけが、それが文字どおりの意味だと分かった。
あの家の礼状が、来る。三日のうちに。具体的に。嘘を一行も含まずに。
彼は柱の陰へ半歩下がり、手袋をはめた手で口元を覆った。肩が震えるのを、どうにも止められなかった。広間の誰かがこちらを見ていたら、典礼卿が怒りに震えていると思っただろう。
リディアが大扉へ向かってくる。エイドリアンは衛兵に人垣を割らせ、一人を馬車寄せまで付けるよう命じた。すれ違う瞬間、口が勝手に動いた。
「……三日のうちに、ですか」
リディアが、わずかに足を止めかけた。振り返った灰色の目には、見知らぬ人を見る驚きだけがあった。
覚えていないのだ、とエイドリアンは知った。
当然だった。あの家の娘は、あれから数えきれないほど礼状を書いてきた。その一通を、こちらが勝手に持ち続けていただけだ。
彼は広間の方へ向き直り、表情を戻した。胸の奥が少しだけ痛み、それ以上に、可笑しかった。
数日後の午後、典礼院の執務室に、王妃宮から使いが来た。
「王妃陛下が、秋の夜会のことでお尋ねです」




