返事に、十一年かかりました
リディアは訪問のお礼状を、翌朝、書簡便で出した。
書き損じは結局六枚になった。王妃陛下へのお返事のお礼、わざわざ足を運んでくださったお礼、それから、鴨の件を覚えていなかったお詫び。どれも祖母の作法どおりに具体的に書いたのに、読み返すたびに、どこか自分の字ではないような気がした。
数日後、ハーコート侯爵と父の署名がそろった婚約の解消の届けが、典礼院で受理された。
同じ日の午後、ハーコート侯爵家の金庫を預かる家令が、典礼院の先例どおりの慰謝の金を届けに来た。金貨百五十枚。家令はリディア本人の前で袋を開け、数を確かめさせてから受取の書付を求めた。
「侯爵閣下より、リディア様ご本人にお渡しするよう申しつかっております」
応接間の隅で、父が何か言いたそうに口を動かしたが、家令はそちらを見なかった。
その夜、リディアは侯爵に慰謝の金の礼状を書いた。今度の礼状は、短く丁寧なものになった。嘘を書かなければ、それ以上に書くことがなかった。
* * *
その翌日の午後、フィッツロイ公爵の馬車がまた門をくぐるのを、リディアは二階の窓から見た。
階下へ下りると、今度は継母も心得たもので、リディアより先に玄関に出て甘い声で言っていた。
「まあ閣下、ようこそ。リディアにご用でしたら、ミレーユも同席させましょう。あの子はまだ年若で、閣下のお話し相手には、姉よりよほど釣り合いますわ」
「ミレーユ嬢は、ハーコート家とのお話が続いていると伺っています」
エイドリアンは穏やかに答えた。
「奥方ご自身が、子爵家の茶会でそうおっしゃっていたと、子爵夫人から伺いました」
継母の扇が止まった。茶会でミレーユの新しい縁談を触れ回ったのは、確かに継母自身だった。
客間に通されると、エイドリアンは上着の内側から一通の手紙を取り出した。濃い青の封蝋に、公爵家の紋が押してある。
「十一年前の礼状への、返事です」
リディアは両手で受け取り、封を切った。便箋は一枚きりで、几帳面な字が短く並んでいた。
リディア・ペンブルック嬢
十一年前の園遊会で、あなたを「子どもは向こうへ行け」と追い払ったのは、私です。その非礼を、まずお詫びします。
翌々日、あなたから礼状が届きました。向こうへ行くように教えてもらったおかげで鴨と仲良くなれたこと。それから、私が一人でつまらなそうだったので、次は鴨のいる方へ来てほしいということ。
あの一通を読んで、私は自分を恥じました。それから、人に礼を尽くすようになりました。
これからは、あなたの礼状を、一番近くで受け取る役をいただけませんか。
エイドリアン・フィッツロイ
読み終えても、リディアはしばらく顔を上げられなかった。
幼い自分が何を書いたのか、ようやく分かった。「子どもは向こうへ行け」と言われて、本当に向こうへ行き、鴨と遊んで、そのお礼を書いたのだ。いかにも祖母に躾けられた子どもらしい、そして相手にとっては身の置きどころのない礼状を。
それを、この人はずっと持っていた。
「あの、閣下」
声が少し上ずった。何か言わなければと思い、口から出てきたのは、長年の癖の方だった。
「お返事は、三日のうちに」
言ってから、リディアは自分の口を押さえた。
向かいで、エイドリアンが笑った。
声を立てて、肩を揺らして。いつも隙なく整っている人の顔がすっかり崩れるのを、リディアはすぐ目の前で見た。
「待ちます。十一年待ちましたから」
* * *
翌朝、リディアは生まれて初めて、一行だけの手紙を書いた。
謹んで、お受けいたします。
封をする前に控え帳に写そうとして、リディアは首を傾げた。机の引き出しに入れておいたはずの、革の表紙の控え帳が見当たらない。昨夜、寝る前にはあったはずだった。仕方なく、別の紙に写しを取った。
その紙を、ネルが覗き込んだ。
「お嬢様。本文が、一行でございます」
リディアは黙って頷いた。
「いつもは三枚はお書きになるのに」
「……三枚書いたら、たぶん、全部が同じ一行になってしまうもの」
ネルは何か言いかけて、やめて、黙って封蝋を温めた。
その日のうちに、公爵家から正式な申し入れが届き、父は目を輝かせて、エイドリアンが先に署名を済ませてきた婚約の誓約書に署名した。公爵家との縁となれば、父に断る理由は一つもなかった。数日後、二人の婚約の届けは、次席の確認を経て、典礼院で受理された。
ネルと二人で部屋じゅうを探したが、控え帳は、その日のうちには見つからなかった。
* * *
リディアが一行の手紙を出したその日の午後、ハーコート侯爵家の奥の一室で、ジャスパーは、ミレーユとその母ドロテアを迎えていた。
表向きは、侯爵夫人へのご機嫌伺いだった。侯爵は王宮に出ていて留守だった。
「ジャスパー様、見て。お姉様の机から持ってきたの」
ミレーユが差し出したのは、革の表紙の帳面だった。開くと、几帳面な字で、手紙の写しがずらりと並んでいる。
「父上宛ての手紙の写しか。……それに、王妃陛下にまで」
ジャスパーは頁をめくり、首飾りのくだりで顔を歪めた。
「あいつ、ミレーユのことを王妃陛下に告げ口したのか」
「ひどいでしょう? お姉様、昔からこうなの。にこにこして、陰でこういうものを書くのよ」
ミレーユの目に涙が浮かぶ。ジャスパーは控え帳を机に叩きつけた。
「これは脅迫状だ。父上も王妃陛下も、あいつに騙されているんだ」
謹慎を言い渡されてから、ジャスパーはずっと考えていた。自分がこんな目に遭っているのは、全部あの陰気な手紙のせいだと。
「収穫の晩餐会には、父上が俺を連れていくと言っていた。陛下の御前で、この帳面を読み上げさせてやる。どれほど陰湿な女か、皆に分かるはずだ」
「そうですわ。読み上げれば、お姉様がどんなにひどいか、きっと皆様にお分かりになりますわ」
ミレーユは首元の真珠に指を添えて、にっこりと笑った。
* * *
その日の夕方、リディアは帰ってきたミレーユと、玄関の広間ですれ違った。
ミレーユは姉の顔を見て、何か楽しいことを思い出したように笑った。
リディアは、その笑い方を知っていた。子どもの頃、リディアの人形を勝手に持ち出した日にも、ミレーユは同じ顔で笑っていた。




