王妃陛下からのお返事
王妃オルタンスは、鈴蘭の封蝋を見ると、いつも少しだけ機嫌がよくなる。
リディア・ペンブルックの礼状は、刺繍の会のたびに届く。あの日の窓辺の光で絹糸の色がよく見えたこと、王妃が貸した針の先が細くて花芯が刺しやすかったこと、出された焼き菓子の柑橘の皮が、亡き母の好物だったこと。誰もが「楽しいひとときでした」で済ませるところを、あの娘は必ず、何がどう良かったかを書いてくる。
その翌日の午後、王妃は居間の長椅子で、いつものように茶を片手に封を切った。
王妃陛下
王妃陛下より、亡き母エレノアが婚礼の折に賜りました真珠の首飾りを、このたび父の計らいにより、義妹ミレーユが一足先に身に着けることとなりました。母は生前、わたくしが嫁ぐ日に着けるようにと申しておりましたが、ミレーユは大変喜んでおり、明後日の子爵家の茶会にも着けて参るそうです。
王妃陛下の首飾りが、母の娘ではないミレーユにまで、かくも早く喜ばれますことを、母もさぞ……
王妃の手の中で、茶器が受け皿に触れて小さく鳴った。
控えていた女官たちが、一斉に息を止めた。王妃が笑みを崩さないまま茶器を置くときは、たいてい誰かの家が一つ、静かに困ることになる。
王妃は最後まで読んだ。末尾には一行だけ、こう添えてあった。
なお、先日の秋の夜会にて、ハーコート侯爵家のジャスパー様より婚約破棄を賜りましたことも、あわせてご報告申し上げます。
「十日の刺繍の会の記録を持ってきてちょうだい」
女官が帳面を開いて差し出した。十日の午後。出席者の中に、リディア・ペンブルックの名がある。
「それから、典礼卿を呼んで」
呼ばれた人は、王妃の茶が冷めきる前に居間に現れた。フィッツロイ公爵エイドリアン。
国王の従弟で、先代を亡くして爵位と典礼卿の任を継いだ人である。宮廷では「王宮一礼儀正しく、王宮一隙のない男」と言われる。夜会の差配では蝋燭一本の芯の長さまで確かめさせる人だと、王妃もよく知っていた。
「秋の夜会で何があったのか、聞かせてちょうだい」
エイドリアンは、見たとおりを話した。ジャスパー・ハーコートがミレーユ嬢を伴って入場したこと。陛下ご退出の後に婚約破棄を宣言したこと。理由として挙げた言葉の一つ一つ。リディア嬢が「承りました。後日、改めてお礼を申し上げます」と答えて退出したこと。
時刻も言葉も、まるで書き付けを読み上げるように正確だった。
「それで、あなたはその場で何もしなかったの?」
「家と家の私事を裁く権限は、典礼院にはございません。馬車寄せまでの道を開けさせ、衛兵を一人付けました」
「そう。あなたらしいわね」
王妃は筆を取って短い返事を書き、封をした。誰に届けさせようかと女官の顔を見回したとき、エイドリアンが一歩前へ出た。
「私が届けます」
王妃は少しだけ目を細め、何も言わずに封書を渡した。
* * *
翌朝、リディアが自室で便箋を揃えていると、ペンブルック伯爵家の玄関が上を下への騒ぎになった。階段の上まで出てみると、継母の声が吹き抜けに響いていた。
「公爵閣下がお見えに? うちに?」
継母のドロテアは侍女に髪を直させながら、階段の途中で振り返った。
「ミレーユ! 早くいらっしゃい、首飾りも着けたままでいいわ。……閣下はね、喪が明けてから縁談を全部お断りになっている方なの。お目に留まれば、それだけで箔がつくわ」
子爵家の茶会に出る支度を済ませていたミレーユが、首元の真珠を整えながら玄関へ急いだ。
エイドリアンは玄関の広間で、継母の長い挨拶と、ミレーユの膝を折った礼を受けた。その目が一度だけ、ミレーユの首元の真珠に留まった。
それから、何も言わずに視線を外した。
「リディア嬢に。王妃陛下からのお返事をお預かりしています」
継母の笑顔が、一瞬だけ固まった。
客間で、リディアは王妃の返事を読んだ。首飾りのことは、わたくしが預かります。晩餐会までは、誰にも何も言わずにおきなさい。あの首飾りは、わたくしの前で返してもらいます。収穫の晩餐会に、わたくしの客として来なさい。短い文面だったが、王妃の字には迷いがなかった。
「閣下、わざわざお届けくださり、ありがとうございます。改めて、お礼状を」
「三日のうちに」
エイドリアンが言った。夜会の扉の前と同じ言葉だった。リディアは、今度こそ尋ねずにいられなかった。
「閣下は、なぜ祖母の作法をご存じなのですか」
「それが、これからお話しする私の用件です」
エイドリアンは膝の上で手を組んだ。
「十一年前、王妃陛下の園遊会で、あなたから礼状を一通いただきました。園遊会の翌々日に届いたその礼状を見て、私の父が教えてくれたのです。ペンブルック家の大奥様は、いただいたものには三日のうちに礼状を書かせる方だ、と」
「わたくしから、閣下に?」
リディアは記憶を探った。幼いころの園遊会。祖母に連れられて行ったはずだが、誰に何を書いたかまでは、とても覚えていない。礼状は、それこそ数えきれないほど書いてきた。
エイドリアンは、少しも迷わずに一文を口にした。
「『向こうには池があり、鴨が三羽おりました』」
リディアの頬に、ゆっくりと血がのぼった。
思い出したのではない。けれど、いかにも幼い自分が書きそうな一文だった。
「わ、わたくし、閣下に、鴨の話を……?」
「とてもよく分かる礼状でした」
エイドリアンの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかどうか、リディアには分からなかった。
「婚約の解消の届けが典礼院で受理されたら、もう一度、伺ってもよろしいですか」
「……はい」
それ以上、彼は何も言わなかった。届けが済むまでは何も言わない、という人なのだと、リディアにも分かった。
公爵の馬車が門を出ていった後、リディアは机に便箋を広げた。訪問のお礼を、三日のうちに。
一行目で、なぜか何度も書き損じた。




