侯爵閣下は、礼状を三度読んだ
ハーコート侯爵エドマンドは、礼状を一度目は黙って読んだ。
二度目は眉を寄せて読み、三度目を読む前に、執事を呼んで息子を連れてこさせた。
「父上、お呼びですか」
昼過ぎまで寝ていたらしいジャスパーは、髪を手で撫でつけながら書斎に入ってきた。侯爵は椅子を勧めず、便箋を持ち上げた。
「ペンブルック伯爵家のリディア嬢から、私に礼状が届いた。読む」
「礼状? あの女、父上にまで……」
侯爵は息子の言葉を待たずに読み始めた。宮廷で長く財務の役に就いてきた人の声は、低く平らで、一字も飛ばさなかった。
婚約破棄を賜りました、のくだりで、ジャスパーの口元がわずかに緩んだ。およそ百名の皆様の前にて、のくだりで、それが消えた。
「止まれ。一つ聞く」
侯爵は便箋を下ろした。
「婚約の誓約書に、お前の署名はあるか」
「……ありません。ですが、私は当事者です」
「誓約書は、私とペンブルック伯爵が署名して典礼院に届けたものだ。お前が大広間で何を叫ぼうと、婚約は一文字も動いていない。動いたのは、ハーコート家の名だけだ」
侯爵は続きを読んだ。十日の午後、ミレーユのドレスが鋏で裂かれたことを初めて知った。その日の午後二時から五時まで、わたくしは王妃陛下の刺繍の会におりました。
読み終える前に、ジャスパーが椅子の背をつかんだ。
「嘘です! ミレーユが泣いて――」
「刺繍の会の出席者は、王妃付きの女官が記録している。調べさせようか」
ジャスパーの口が開いて、閉じた。
「お前は確かめたのか。その日、その時刻に、リディア嬢がどこにいたかを」
「ミレーユが、そう言ったので……」
「そうか」
侯爵の声がさらに静かになった。屋敷の者は皆、この声の静けさがどこまで下がるかで、主人の怒りの深さを測る。
三十六通の礼状が封を切らずに手元にある、のくだりで、侯爵は執事を振り返った。
「ジャスパーの机の引き出しを、中身ごと持ってきなさい」
しばらくして、執事が両手で引き出しを抱えて戻ってきた。中には、封蝋の割れていない手紙が、紐で束ねもせずに積み重なっていた。どれにも、小さな鈴蘭の印が押してある。
執事は一通ずつ机に並べ、最後に一礼した。
「三十六通ございます。いずれも、封はそのままでございます。今朝届いたもう一通は、お部屋の卓の上に、やはり封のまま置かれておりました」
侯爵は一番上の一通を取り、裏返して、また置いた。
「月に一度の面会のたびに、礼状が来ていたのか」
「……毎回、ああいう細かい手紙を寄こすんです。陰気で」
「面会は、毎回どれほどの時間だった」
ジャスパーは答えなかった。代わりに、執事が目を伏せたまま答えた。
「毎回、十五分ほどでございました」
侯爵は礼状を畳み、封筒に戻した。
「お前は当分、この屋敷から出るな。私はこれから、ペンブルック伯爵家へ行く」
* * *
その日の午後、ペンブルック伯爵家の応接間は、紅茶が冷めるほど静かだった。
リディアは父バーナードの後ろに控えていた。向かいに座ったハーコート侯爵は、父の挨拶を短く受け、すぐに本題に入った。
「息子の非礼を詫びに来た。婚約の解消には、私の方から署名する。ハーコート家の責による解消として、慰謝の金は典礼院の先例どおり、リディア嬢にお支払いする」
「いえいえ、閣下、そのようなお気遣いは」
父は額の汗を拭きながら、揉み手をせんばかりに身を乗り出した。
「若い者のことでございますから。それに、相手が姉から妹に替わるだけのことです。ミレーユも私の養女、伯爵家の娘でございますし、両家の縁はこれまでどおり――」
隣で継母のドロテアが、扇の陰で微笑んでいる。
侯爵は父の言葉を最後まで聞き、それから一度だけリディアを見た。
「新しい婚約の話は、息子の処分を決めてからだ。今日はそれだけ伝えに来た」
侯爵が帰った後、父は不機嫌そうに椅子に沈み込んだ。
「お前が妙な手紙を書くからだ、リディア。母親に似て、可愛げのない」
「お父様、お祖母様の作法どおりに書いただけですわ」
「母上の作法など、もう誰も気にしておらん」
リディアは黙って一礼した。祖母が亡くなってから、父が礼状を書いたところを、リディアは一度も見ていない。
* * *
翌日の朝、リディアが部屋に戻ると、鏡台の上の小箱が空になっていた。
階下の居間で、ミレーユが鏡の前に立っていた。白い首元に、真珠の首飾りが光っている。
母エレノアの形見だった。母が嫁ぐとき、幼なじみだった王妃陛下から下賜されたもので、母は亡くなる前に「リディアが嫁ぐ日に、着けてあげて」と言い残した。
「お姉様、ありがとう。これ、私に似合うでしょう?」
ミレーユがくるりと回る。継母がその後ろで、満足そうに首飾りの留め金を直していた。
「姉なのだから、譲ってあげなさい。リディア、もうハーコート家に嫁がないのだから、着ける場所もないでしょう? ミレーユは明後日、子爵家の茶会に呼ばれているの。新しいお話の前に、少しは見栄えがしないと」
「ミレーユの方が似合う」
父は読んでいた帳簿から顔も上げずに言った。
リディアは首飾りを見つめ、それから、いつものように頭の中で礼状の項目を立てた。
(いただいた、というより、持っていかれたのだけれど……)
祖母の教えには、こういうときの決まりもあった。
――贈られた品が、ほかの方からの預かりものであるなら、元の贈り主にも一筆添えなさい。
首飾りの元の贈り主は、母ではない。
「ええ。よくお似合いよ、ミレーユ」
リディアは微笑んで、自分の部屋へ戻った。
その夜、新しい便箋の一行目に、リディアは丁寧な字で書いた。
王妃陛下
燭台を持って入ってきたネルが、それを見て、危うく燭台を取り落としかけた。




