お礼は、後日改めて
「リディア・ペンブルック! 義妹を虐げるような女とは、今この場で婚約破棄だ!」
秋の夜会の大広間の壁際で、リディアは婚約者ジャスパー・ハーコートの声を、真正面から浴びた。
楽団が弓を止め、踊っていた組が足をもつれさせる。国王陛下と王妃陛下は早々に退出された後で、広間に残っているのは若い貴族ばかりだった。その全員の目が、壁際に立つリディアに集まる。
ジャスパーの腕の中には、義妹のミレーユがいた。今夜、婚約者のリディアを父と継母の後ろに歩かせ、ミレーユの手を取って入場してきたときから、広間の半分はこうなることを予想していたのだろう。囁き交わす顔に、驚きより期待の色が濃い。
さあ、泣くか、取りすがるか。
リディアは扇を閉じ、少し首を傾げた。
(まあ。……これは、何をいただいたことになるのかしら)
亡き祖母の声が耳の奥でよみがえる。
――いただいたものには、三日のうちに礼状を。何をいただき、どう嬉しかったかを、具体的に。曖昧なお礼は、お礼ではありませんよ。
幼いころから、この教えを破ったことは一度もない。
「聞いているのか!」
ジャスパーが一歩前へ出た。金の髪が燭台の光を弾く。見目のよさだけは、婚約したときから変わらない。
「十日の午後、お前はミレーユのドレスを鋏で裂いたそうだな。茶会ではミレーユを無視し、居場所をなくさせた。それだけじゃない。面会の翌日には決まって、鈴蘭の封蝋の手紙だ。中身はどうせ礼状だの何だの、陰気でうんざりだったんだ。言っておくが、お前の手紙など一通も開けていない!」
「ジャスパー様、もうよろしいのです」
ミレーユが彼の袖をそっと引いた。栗色の巻き毛が震え、大きな目に涙が溜まっている。
「お姉様、私、怒っていませんわ。ただ、ジャスパー様と……」
語尾が嗚咽に溶け、広間のどこかで令嬢が「お可哀想に」と呟いた。
リディアは頭の中で、いただいたものを数えた。
一つ、婚約破棄。
二つ、ミレーユのドレスが裂かれたというお知らせ。
三つ、これまでの礼状が一通も開けられていないというお知らせ。
(十日の午後……あら、その日は)
思い当たることはあったが、口には出さなかった。こういうことは、礼状に書けばよい。
広間は静まり返っていた。誰もが、伯爵令嬢が泣き崩れる瞬間を待っている。ジャスパーが顎を上げた。
「どうした。何か言ったらどうだ」
リディアはドレスの裾をつまみ、背筋を伸ばして、きれいな礼をした。
「承りました。後日、改めてお礼を申し上げます」
ざわめきが波のように広がった。
「……お礼?」
「何に対するお礼ですの」
「報復の予告ではありませんの」
ジャスパーは一瞬だけ目を丸くし、それから鼻で笑った。
「負け惜しみか。好きにしろ」
リディアはもう一度軽く膝を折り、広間に背を向けた。
大扉の前には、黒髪の背の高い男性が立っていた。典礼卿のフィッツロイ公爵、王宮の夜会をすべて差配している方だ。公爵は衛兵に目配せをして人垣を割らせ、一人を馬車寄せまで付けるよう命じた。
すれ違いざま、低い声が落ちてきた。
「……三日のうちに、ですか」
リディアは思わず足を止めかけた。祖母の教えを、なぜこの方がご存じなのだろう。
振り返ったときには、公爵はもう広間の方を向いていて、表情は少しも読めなかった。
* * *
リディアが馬車寄せに出ると、王宮の控えの間で待っていた侍女のネルが、もう馬車の扉を開けていた。広間の騒ぎは、控えの間まで筒抜けだったらしい。ネルはすべてを聞いたという顔でリディアを乗せ、屋敷に着いて部屋に入るまで、一言も口をきかなかった。
「お嬢様、お茶を淹れましょうか。それとも、お泣きになりますか」
「便箋を出してちょうだい。二通分」
ネルは何も聞かずに、引き出しから便箋と鈴蘭の封蝋を出した。
一通目は、ジャスパーに宛てて書いた。開けてもらえないことは今夜知ったが、作法は作法である。
二通目の宛名を書いたところで、ネルが息を呑んだ。
「お嬢様、宛先が……ハーコート侯爵閣下になっております」
「ええ。お祖母様の教えよ。お礼を申し上げるお相手がまだご当主でないなら、ご当主様にも一筆添えなさい、って」
リディアは祖母の形見の銀の文鎮で便箋を押さえ、ペンを走らせた。
ハーコート侯爵閣下
本日、秋の夜会の大広間にて、ご子息ジャスパー様より、婚約破棄を賜りました。王宮の大広間で、およそ百名の皆様の前にてのお申し出でしたので、大変印象深く頂戴いたしました。
なお、わたくしどもの婚約の誓約書は、閣下と父の署名をもちまして典礼院に届けてあるものと存じております。閣下のお考えもお聞かせいただければ幸いです。
また、去る十日の午後に、義妹ミレーユのドレスが鋏で裂かれたことを、ジャスパー様のお言葉で初めて知りました。その日の午後二時から五時まで、わたくしは王妃陛下の刺繍の会におりましたので、まったく存じませんでした。お知らせくださったジャスパー様のお心遣いに、感謝申し上げます。
さらに、この三年間にわたくしがお送りした礼状三十六通が、すべて封を切らずにお手元にあると伺いました。閣下のお屋敷のどこかを、三十六通分の紙で塞いでしまい、申し訳ございません。
最後に、心からのお礼を申し上げます。婚約がなくなり、わたくしは本当に助かりました。
リディア・ペンブルック
書き終えて、リディアは控え帳を開き、一字一句違えずに写した。これも祖母の教えである。
ネルが、乾いたインクを覗き込んで額を押さえた。
「お嬢様。嘘は一行もございませんね」
「お祖母様が、嘘は一行も書くなとおっしゃったもの」
「ええ。だから困るのでございます」
翌朝、ネルは二通の礼状を王都の書簡便に出しに行った。
三日のうちに、と祖母は言った。今回は、一日で済んだ。
そしてその日の昼、ハーコート侯爵家の書斎で、侯爵は鈴蘭の封蝋を切った。
お読みいただきありがとうございます。全六話、完結まで一度に投稿しています。
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