思い出せない場所
四人は連絡先を交換し、明日もう一度集まる約束をして、その日は解散した。
宗介は自転車で来ていたため、真夏の熱気の中を汗だくになってペダルを漕ぐ。
しばらく走ると、急な坂道が現れた。しかし、この坂を避ければ遠回りになり、家までかなり時間がかかる。宗介はハンドルを握り直し、立ち漕ぎで坂へ挑んだ。
「がんばってー、宗ちゃん!」
後ろから弾むような声が飛んでくる。
振り返ると、荷台には涼夏が楽しそうに座っていた。
「おまっ……重いんだよ。降りろよ!」
息を切らしながら文句を言うと、涼夏は首をかしげる。
「私、幽霊だから重さなんてないよ?」
「……そうだった」
妙に納得できない気持ちを抱えたまま漕ぎ続けたものの、結局力尽き、宗介は自転車を降りて押しながら坂を上ることになった。
やっとの思いで坂を登ると、夏の涼しい風が宗介の全身を包んだ。目の前には下り坂だ。宗介はサドルに座り直すと、ブレーキから指を離した。
「うわぁぁーー!」
「きゃーーっ!」
二人の楽しそうな叫び声とともに、タイヤが弾みながら加速していく。海沿いの道が視界いっぱいに広がり、風を切って駆け下りる。潮風が勢いよく頬を撫で、汗ばんだ首筋から一気に熱を奪っていく。
太陽の光が降り注ぐ中、二人を乗せた自転車は矢のように駆け抜けていく。ほんのひとときだけ、灼けつくような暑さを忘れられた時間だった。
* * *
「ご飯よー!」
一階から母の声が響いた。リビングへ向かうと、食卓には夏野菜がたっぷり入ったカレーが並んでいる。
——暑い日は、やっぱりカレーか。
そんなことを思いながら席に着き、一口頬張る。
すると横から、
「美味しい? 美味しい?」
涼夏がぴょんぴょん跳ねながら顔を覗き込んできた。それと同時に、
「どう? 美味しい?」
母も笑顔で尋ねる。
「うん、美味しいよ」
宗介が答えると、母はほっとしたように微笑んだ。
「よかった。お隣さんから、なすをいただいたのよ」
一方、涼夏は、
「いいなぁー、美味しいのかぁ」
羨ましそうにカレーを見つめる。
あまりにも物欲しそうな顔をするので、宗介は小声で尋ねた。
「……一口、食べてみるか?」
「うん!」
涼夏は嬉しそうに口を大きく開けると、宗介はカレーの乗ったスプーンを差し出した。
——びちゃっ。
カレーは涼夏の口をすり抜け、そのままテーブルへ落ちた。
「もう、何やってるの。大学生にもなって」
母は苦笑しながら台ふきを差し出す。
「ほら、これで拭いて」
「……ごめん」
宗介は慌ててテーブルを拭き始めた。
(食べ物は食べられないのか)
初めて知った事実に妙に納得していると、涼夏は目を潤ませ、しょんぼりとうつむいていた。
(……本人も知らなかったのか)
* * *
その日の夜。
昼間に比べると猛暑は落ち着き、部屋の網戸からはほんの少しやわらかい風が入ってくる。
「宗ちゃん、起きてる?」
涼夏は、ベッドで横になっている宗介へ小声で呼びかけた。
「……」
返事はない。静かな寝息だけが部屋に響いている。宗介が眠っていることを確かめると、涼夏はそっと窓をすり抜け、夜の街へ飛び出した。
* * *
「わぁー、私の部屋、まだある!」
窓から自分の部屋へ入り、涼夏は嬉しそうに声を上げる。辺りを見回すと、机の位置も、本棚に並ぶ小説も、ベッドの縁に置かれたぬいぐるみも、八年前の記憶のままだ。
「全然変わってない……」
そうつぶやきながら、涼夏は部屋の中をゆっくり見渡した。
部屋を出て、一階へ降りるとリビングでは母親がソファに座ったまま、うたた寝をしていた。
「ママ? 風邪ひくよ」
肩を叩こうと手を伸ばしかけて、涼夏はピタリと手を止めた。
——やめとこう。
少し寂しそうに目を伏せると、近くに置かれていた毛布を手に取り、そっと母親の肩へ掛けた。八年前と変わっていない部屋の中を見渡すと、ふと、机の上に置かれた分厚いファイルが目に入る。
「なんだろう?」
涼夏は興味本位でファイルを開いた。中には、新聞記事やネットニュースの切り抜きが何枚も挟まれている。それは、自分の行方不明事件をまとめたスクラップ帳だった。
「こんなの作ってたんだ……」
ページをめくるたび、自分がいなくなった後、大変だったのだと痛感した。その時、あるページの端に書かれた文字が目に留まった。そこには、
『信じられない』
と、ママの字で書かれていた。
「……?」
涼夏は首をかしげる。何が信じられないのか、さっぱり分からない。記事の見出しには、『警察、情報提供を求める』という文字が躍り、その横には、市も全面的に捜査へ協力するという内容が書かれていた。写真には、警察署長と市の代表者が固く握手を交わしている姿が写っている。詳しく記事を読もうとした、その時だった。
ガタン、と二階から物音が聞こえ、誰かが階段を下りてくるのが分かった。涼夏は慌ててスクラップ帳を机の上に戻し、窓をすり抜けて外へ飛び出した。庭からそっとリビングを覗き込むと、降りてきたのは父親だった。眠っていた母親に優しく声をかけていた。
「こんなところで寝たら風邪ひくぞ」
「……あ、ごめん」
そんな二人のやり取りを見て、涼夏は自然と微笑んだ。
けれど、涼夏の中には一つの疑問が残った。
(あのメモ……どういう意味だったんだろう)
胸の奥に、小さな引っかかりだけが残る。
涼夏はもう一度家の中へ入ろうとしたが、両親の穏やかなやり取りを見て、今日はもう帰ろうと足を止めた。振り返り、静かな街の上を飛び越え、宗介の家へと戻っていった。
——————
八月二十六日、早朝。
何かが髪に触れたような気がして、宗介はゆっくりと目を覚ました。ぼんやりとした視界の先には、一人の少女の寝顔があった。さらさらとした細い黒髪。長いまつげ。ほんのりと桜色がかった柔らかそうな肌。そして、静かに繰り返される規則正しい寝息。
目の前にいる涼夏の顔を見つめ、宗介は思わず息をのむ。朝日がカーテンの隙間から差し込み、その横顔を優しく照らしていた。あまりにも無防備な姿に、宗介の頬がわずかに熱を帯びる。
静かな朝、目の前には気持ちよさそうに寝る少女。再び宗介に眠気が襲かかり、二度寝しようと目を閉じかけた時。
——いや、待て。
そこでようやく、宗介は自分の置かれた状況を理解した。隣に女の子が無防備な姿で寝ていることに。
「うわああああああっ!」
そう思った瞬間、叫ばずにはいられなかった。勢いよく飛び起きる。
「宗介! 朝からうるさい!」
一階から母の怒鳴り声が飛んできた。
宗介は慌ててベッドの端まで後ずさり、壁に背中をつける。ドクドクと早鐘を打つ心臓を必死に落ち着かせた。
「もう、なぁに……?」
涼夏は眠そうに目をこすりながら、ゆっくりと身体を起こす。
「お、おまえ、床で寝てたんじゃなかったのか!?」
「寝てたけど、硬いんだもん」
何事もなかったように、涼夏は大きなあくびをした。
「おはよう……」
「……お、おはよう」
再び何事もなかったように、朝の挨拶を涼夏がしてきたので、宗介も反射的に返した。しかし、頭の中では何から考えればいいのかさえ分からず、思考だけがぐるぐると渦を巻いていく。
朝から心臓に悪すぎる出来事に巻き込まれ、宗介は強く思った。
(……今日一日、絶対に疲れるな)
そんな予感だけは、嫌というほど当たりそうだった。
* * *
正午過ぎ。
四人は朝凪公園に集まった。木々が青々と生い茂るこの公園は日陰が多く、真夏でも比較的涼しい。 すぐそばのお堀には蓮の花が一面に咲き誇り、淡い桃色の花が水面を彩っている。犬の散歩をする人や、ランニングをする人達が目の前を通っていく。四人はベンチに集まり、作戦会議を始める。
「それで、どうする?」
剛が腕を組む。
「何の手掛かりもなしに探すのは、さすがに無理だぞ」
「いや、昨日の涼夏の話だと——」
宗介が言いかける。
***
「殺すって……。ていうか、死体を探すって言っても、何の手掛かりもないだろ」
「手掛かりならあるよー!」
「?」
「私だよ! 殺された本人がいるんだから、それくらい目星はついてるよ!」
***
「……って言ってたよな」
昨日の自信満々に言う、涼夏の姿を思い出した。
「で、その目星って? 宗介、何か聞いているんでしょ」
千花が尋ねる。宗介は言いにくそうに答える。
「草むら」
「「「はぁ?」」」
三人の声がぴたりと重なった。
***
「草とか木がいっぱい生えてる山道みたいな場所で、首を絞められて殺されたの!」
昨夜、涼夏は身振り手振りで一生懸命教えてくれた。
***
「まじかぁー」
剛が頭を抱える。
「はぁぁぁ……」
千花は苛立ったように大きくため息をついた。当の本人へ視線を向けると、蓮の花を眺めながら「きれー」と楽しそうに観賞中だ。
「はぁぁぁ……」
自然と二度目のため息が漏れた。
「もう、警察に言った方がよくない?」
千花はめんどくさそうに提案する。その後誰も答えられずにいると、それまで黙っていた直人が静かに口を開いた。
「犯人は遺体を運ぶ距離を短くするはず」
「だから——」
「夏祭り会場から涼夏の家までのルートで、それらしい場所を片っ端から探すしかない」
「二手に分かれよう」
その提案で方針は決まった。
宗介と直人は涼夏の家から。千花と剛は夏祭り会場から。それぞれ車に乗り込み、ルートを逆方向から調べ始めた。
* * *
宗介が運転し、直人が助手席に座る。車内は走行音だけが響き、二人とも口を開かない。一方、涼夏はというと、なぜか車の屋根の上に座り、風を浴びながら、まるで遊園地のアトラクションに乗っているかのようにはしゃいでいた。
その頃——
剛の運転する車では、助手席の千花が窓の外を眺めながらぽつりとつぶやく。
「あの二人……大丈夫かしら」
「ん?」
「だって、あの後喧嘩したまま、それっきりだったじゃない」
「ああ、そうだったな」
剛は軽く肩をすくめる。
「まぁ、大丈夫だろ。もう子どもじゃないんだし」
「あんたって、ほんと適当よね」
千花は呆れたようにため息をついた。カーラジオから流れる能天気な夏の歌が、車内の空気とわずかに噛み合わないまま流れ続けている。
——再び、宗介たちの車内。
重苦しい沈黙が続き、耐えきれなくなった宗介が口を開いた。
「直人は、いつまでこっちにいる予定なんだ?」
「今月いっぱいかな。来月には学校が始まるから戻らないと」
「ふーん……そっか。俺も同じだ」
「……」
会話が続かず、また沈黙が続く。
(気まずい)
何か話題を探そうとした、その瞬間——。
目の前のフロントガラスいっぱいに、黒い長い髪がばさりと垂れ下がった。
「ねぇー! 宗ちゃーん!」
「うわあああああっ!」
宗介は悲鳴を上げ、ハンドルが左右に大きくぶれる。
「落ち着け! とりあえず路肩に寄せろ!」
直人も珍しく声を荒らげた。
* * *
宗介は慌てて車を路肩へ停め、休憩する。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ハンドルを握ったままうつむき、激しく鼓動する胸を必死に落ち着かせる。すると、直人が後ろを振り向き。
「ダメだろ、おすず。あんなことしちゃ」
宗介も振り返ると、いつの間にか涼夏は後部座席にちょこんと座っていた。
「……ごめんなさい」
さすがに反省したのか、涼夏はしゅんと肩を落とす。
ようやく呼吸が落ち着き、宗介も少しだけ余裕を取り戻したので、涼夏に先ほどの続きを尋ねてみた。
「そ、それで……何?」
それを聞くと、涼夏はぱっと顔を輝かせて、
「あのね!」




