幽霊?
ドンドンドン――ガラッ。
勢いよく襖が開き、悲鳴を上げたばかりの宗介に追い打ちをかけた。
「うるさい!宗介、夜なんだから静かにしなさい!」
階下から駆け上がってきた母さんが、呆れた声で怒鳴る。
「え、あっ……だって、女の子が……誰、この子?」
「はぁ?何言ってるの。誰もいないでしょう。近所迷惑になるから、し・ず・か・に!」
そう言い残して襖を閉め、母は階段を降りていった。
(え……なんで?)
俺は目の前の女の子と顔を見合わせる。確かにそこにいるはずなのに、どこか人間らしくない。その違和感が、じわじわと胸の奥に広がっていく。彼女はくすっと笑い、俺は戸惑いながらも曖昧に笑みを返した。
「えーと……君、誰?」
「えっ、私だよ。忘れちゃったの?」
(いや、まったく見覚えがない)
腰まで届くさらさらの黒髪。夏の風が似合いそうな、白いノースリーブのワンピース。そして、自分を見つめてくる大きな黒い瞳。蒸し暑いはずのこの部屋の中で、彼女の周りだけ、ひんやりとした空気が漂っているような気がした。
すると、彼女は、ひょいと机の上に飛び乗ると、胸を張って高らかに名乗った。
「私は、中学二年の夏、夏祭りの夜に殺された、正真正銘の幽霊である!」
はぁ? 幽霊? 何言ってるんだ、こいつ——言葉の意味がうまく飲み込めなかった。だが次の瞬間、頭の奥で何かが繋がる。
(待て。中学二年、夏祭りの夜に殺された——まさか)
宗介は恐る恐る、目の前の自称幽霊に尋ねる。
「おまえ……まさか、藤岡涼夏か?」
その瞬間、自称幽霊は目を輝かせ、太陽のような笑顔を向けてきた。
「そうだよ、宗ちゃん!」
………………嘘だろう。でも、確かに。
そう言われてみれば、記憶の奥にある彼女の輪郭と、目の前の顔が少しずつ重なっていくのが分かった。でも——そんな簡単には信用できない。
「えーと、ちょっと待って、何言ってるか分からないんだけど」
「まず、なんでその幽霊がうちにいるんだよ」
「えー、だってあの手紙読んだから、会いに来てくれたんでしょ?」
(手紙……?)
『お前の秘密を知っている』
数日前受け取った黒い髪の束が入った、あの不気味な手紙が脳裏をよぎる。
「あぁー!あれお前か!」
「そうだよ!」
「どういうつもりだよ、あんなホラー要素満載の呪いの手紙送りつけやがって!」
「え、何言ってるの。あれ、昔みんなで見に行ったホラー映画に出てきた手紙だよ」
その一言で、小学生の頃の記憶がよみがえる。五人で映画館へホラー映画を見に行き、全員泣きながら帰った、あの夏の日。
「だから、みんなだったら分かってくれると思って」
「分かるかーっ!」
思わず鋭くツッコんでしまう。
(はぁ……心配して損した。てっきり呪い殺されるのかと)
胸を撫で下ろした、そのとき。ふと、直人が言っていた言葉がよぎる。
『八年前から何も進展していない。未だに行方不明のままだ』
俺は小さくつぶやいた。
「ちょっと待て。藤岡涼夏は行方不明なんだろ?だったら、 別に死んだと決まったわけじゃ——」
すると涼夏は、おかしそうに笑った。
「あはは、何言ってるの。目の前に幽霊がいるんだよ? それが何よりの証拠じゃん」
「いや、お前が幽霊じゃないって可能性も——」
「さっき、宗ちゃんのお母さん。私のこと、見えてなかったよね」
(あっ)
そうだった。母さんは、この部屋にいたのは俺一人だと思っていた。そして、ふと気づく。彼女の足元には影がないことに。彼女が人間ではないという事実が、じわじわと胸の底に沈んでいく。どうやら目の前にいる藤岡涼夏は、本当に八年前に殺された、正真正銘の幽霊らしい。
「それで、その幽霊様は、俺たちに何をしてほしいんだよ」
半ば諦めながら尋ねると、涼夏はまるで、その質問を待っていたかのように、こう告げた。
「あのね! みんなに、協力してほしいことがあるの!」
——————
翌日。
中学校の連絡網を引っ張り出し、昨日会った三人を神社へ呼び出した。集まった三人は、言葉もなく涼夏を見つめている。どうやら、この三人にも彼女の姿が見えているらしい。
「……うそでしょ」
「マジかよ」
千花と剛が、信じられないというように呟く。
まぁ、そうなるよな——。幽霊を見るなんて人生で一度あるか、ないかだ。いや、ほとんどの可能性でないのが当たり前だから、その反応も無理はない。昨日叫んだ俺と比べると、こいつらはいたって冷静だ。しかし、直人だけは納得していない様子で疑うように涼夏を見ていた。
「幽霊? 馬鹿馬鹿しい」
冷たく言い放ち、涼夏を睨む。
「だいたい、藤岡涼夏本人だってどうやって証明するんだよ」
「えー? そんなの見れば分かるじゃん。涼夏でしょ?」
(あー、だんだん思い出してきた。こんな感じだったな、あいつ)
だが、それでも直人は首を横に振った。
「くだらない。僕は帰る。こんなのに付き合っていられない」
踵を返そうとした、その瞬間。
「いいの? 本当に帰っちゃって」
涼夏は声のトーンは変わらないが、その一言だけが妙に鋭く、境内の空気を切り裂いた。直人もその一言が気になったのか、足が止まる。
「手紙に書いてあったでしょ? 秘密を知ってるって」
「はっ、僕の何を知ってるんだよ」
鼻で笑うように返す直人に、涼夏は「うーん」と少しだけ考える仕草をしてから、にこっと笑った。
「じゃあ、こんなのはどう?」
「直ちゃんさ…………」
「万引きしてたよね」
「——!!」
空気が、音を立てて凍りついた。
(え……?)
「高校生の頃、何度もやってたでしょ。それで、ある時お父さんに見つかって。それ以来ずっと、仲悪いままだよね」
涼夏は一瞬、責めるような、値踏みするような目で直人を見つめた。だがそれもほんの一瞬で、すぐにまた、いつもの明るい笑顔に戻る。
(嘘だろ……)
直人は昔から真面目だった。少なくとも、俺が知っている直人は、そんなことをする人間じゃなかったはずだ。
「えっ、最低。なにそれ」
千花が思わずといった様子で顔をしかめる。
「お前……マジかよ」
剛も、信じられないという表情のまま固まっていた。
「くっ……」
直人は何も言い返せず、唇を噛んだまま俯く。その沈黙だけで、否定できない事実なのだと分かってしまった。
すると涼夏は、くるりとこちらへ振り返る。
「みんなのも知ってるからね」
ゾクリ——笑っているのに、目の奥だけは笑っていないような、満面の屈託のない笑顔。口調も、いつもと同じ明るさだが、有無を言わせないような圧を感じた。
蝉の声が、遠くなったり近くなったり、暑いはずなのに、背筋を冷たいものが走った。
(大丈夫だ。俺はバレて困るようなことなんて……たぶん、ない)
そう自分に言い聞かせながらも、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
本当にそうか。自分でも忘れている何かが、あるかもしれない。
隣を見ると、千花も剛も青ざめたまま黙り込んでいた。二人とも、涼夏と目を合わせないようにしている。まるで、目が合えば次は自分の番だと脅されているようで。さっきまで感じていた懐かしさや親しみが、急速に色褪せていく。
「それで、俺たちに協力してほしいことって何なんだよ」
声が震えないよう、宗介は無理やり尋ねる。涼夏は満足したのかそれ以上何も追及せず、神社の境内のすぐ隣にある、小学校のフェンスの前まで歩いていった。
夏の日差しが白いワンピースを照らし、歩く動きに合わせて黒髪がふわりと揺れる。彼女は背中を向けたまま、小さく口を開いた。
「協力してもらいたいことはね……」
夏の風が一瞬 サーッと、沈黙の間を縫うように吹き抜ける。
ゴクリ——何を言われるんだと、宗介も他の三人も次の涼夏の言葉を待っている。そして、涼夏はこう続けた。
「私の死体を、見つけてほしいの」
(え……俺たちで? 警察ですら見つけられなかったのに?)
だが、本人は冗談を言っている様子など、まるでなかった。
「それと」
(まだあるのか)
宗介に再び緊張が走り息を吞む。
彼女はゆっくりとこちらを振り返る。フェンスの金網越しに差し込む光が、彼女の輪郭を白く縁取って、表情がはっきりと見えた。
「……私を殺した犯人を、見つけてほしいの」
(はぁ?)
ミンミンミンミン——。
耳をつんざくような蝉の声が、一斉に降り注ぐ。
焼けつくような陽射しに、首筋の汗が伝い落ちた。
「見つけ出してどうするんだよ。警察に突き出すのか?」
あまりにも予想外の言葉で宗介は少し冗談めかして聞いた。が、涼夏はさっきまでと変わらず、明るい笑顔を浮かべ、
「そんなの、決まってるじゃん!」
ミンミンミンミンミンミン——。
カーカー。
ササー。
蝉の声、カラスの鳴き声、木々が揺れる音。この時だけ、世界がやたらうるさく感じた。
「見つけ出して……」
しかし、うるさいと思っていた世界が、一瞬だけ、静寂に包まれた——そして、
「殺すんだよ」
その顔に浮かんでいたのは、夏の太陽みたいに無邪気な笑顔だった。迷いも、罪悪感も知らない、まっすぐな笑み——フェンスの向こうで空だけを見上げて咲く、ひまわりそのものの笑顔。
なのに——そこから紡がれた言葉だけが、表情とは正反対で氷のように冷たかった。
フェンスの向こうでは、満開のひまわりが真夏の陽射しを浴びてゆらゆらと揺れている。鮮やかな黄色だけが、まるでこの残酷な願いを祝福しているかのように、静かに揺れ続けていた。




