不気味な手紙
ミンミンミンミン――。
セミの鳴き声が容赦なく降り注ぎ、太陽の熱が肌を焼く。そんな猛暑が何日も続く、都会の夏。夜になれば多少は気温も下がるが、アスファルトにこびりついた熱気はなかなか消えない。
「やっと内定も決まったし、あとは卒論だけだな」
少し古めかしいアパートの階段を昇りながら、アルバイトを終えて帰宅したのは大学四年生の平井宗介。自分の家の扉前にたどり着くと、昨日まで空き家だった隣の部屋から話し声が聞こえてきた。新しい住人が引っ越してきたんだなと、そんなことを思いながら、玄関脇に買い物袋を置いた。汗で貼りついたシャツの背中が、ひんやりとした玄関の空気に触れ、少しだけ楽になる。
中に入る前にポストを開けると、中には四通。三通は宣伝チラシで、残る一通は白い封筒だった。差出人には「藤岡涼夏」と書かれている。
(藤岡涼夏……? 誰だったっけ)
首をかしげながら部屋へ入り、封を切ると、中には一枚の便箋。
見ると赤黒く滲んだ文字――まるで血で書いたような筆致で、一言だけがそこにあった。
『お前の秘密を知っている』
「うわっ……誰だよ。いたずらか?」
思わず顔をしかめた。悪ふざけにしては、あまりにも悪趣味だ。それでも、こんな手紙を送ってくる相手に心当たりはなく、胸の奥に嫌な不安がじわりと広がった、そのときだった。封筒の中に、まだ何かの重みが残っていることに気づき、宗介は封筒を逆さにし、片手を差し出した。
スルッ……
——ボトッ。
湿ったような感触と重さが手のひらに落ちてきた。長い黒髪の束だった。
宗介は大きく目を見開き、
「うわあああっ!」
驚きのあまり、宗介は反射的に手にしていたものをすべて放り投げた。足がもつれ、そのまま床に尻もちをつく。心臓が激しく跳ね、呼吸が浅くなる。喉の奥がひゅっと狭まった。何が起きたのか理解できない。ただ、あれに触れてしまったことだけが、ひどく恐ろしかった。震える手を押さえながら、宗介は恐る恐る髪の束へと視線を戻した。
「これ……髪の毛か? えっ、本物……?」
指先で軽く触れると、さらりとした感触が指先を滑った。一本一本の細い毛が絡み合う感触まで伝わり、作り物には見えない。
床に落ちた手紙を拾い上げたとき、裏側にも文字があることに気づいた。
『八月二十四日 午後三時 青葉小学校裏の神社まで来い』
* * *
不気味だった。
誰がこんな悪質な悪戯をするのか。馬鹿馬鹿しい――そう思う一方で、拭いきれない不安が胸の底に居座っていた。大学四年生の宗介は、すでに就職先の内定が決まっている。もし何か厄介事に巻き込まれ、内定に影響でも出たら——。
(こんなの無視すればいい。……無視すればいいはずなのに)
黒髪の束と怪しい手紙を、宗介はしばらく見つめた。ドクン、ドクン、と心臓の音がやけに大きく響く。額から汗が一筋、頬を伝ってぽたりと床へ落ちた。暑さのせいなのか、それとも別の理由なのか、宗介にはもう分からなかった。そして。
「……久しぶりに帰省するか」
渋々、そう結論づけ、黒髪の束はゴミ箱に捨てた。
——————
八月二十四日。
宗介は新幹線に乗り、久しぶりに地元へ帰省した。
大学進学を機に上京してから、実家へ帰る機会はほとんどなかった。突然の帰省に家族は喜び、駅まで迎えに来てくれた。
新幹線の駅を出て、車は緑が広がる田んぼ道を走っていく。都会に比べると、車の数も少なく、騒音もない。ここだけ、時間がゆっくり進んでいると錯覚しそうなぐらい長閑だった。車を走り続けると、やがて見慣れた街並みが姿を現した。
「皆様、私の息子に清き1票を——」
炎天下の中で街頭演説を続ける政治家。
「あぢぃー。その荷物重いから、気をつけろよ」
汗だくになりながら家具を運ぶ引っ越し業者。
「キャー、先生冷たいねー!」
公園では園児たちが歓声を上げ、水遊びを楽しんでいる。
(保育園の先生も大変だな)
そんなことをぼんやり考えながら、懐かしい景色を眺めていた。
何も変わっていないようで、けれど自分だけが少し置いていかれたような、不思議な感覚があった。
* * *
午後二時五十五分。
朝凪市立青葉小学校。そこは宗介の母校だった。校舎の裏には小さな神社があり、学校帰りには仲の良かった友達とよく集まって遊んだ思い出の場所だ。
指定時刻の五分前に到着すると、すでに三人の男女が待っていた。どこか見覚えのある顔で、そのうちの一人、体格のいい男が声をかけてくる。
「おまえ……宗介か?」
「えっ? なんで俺の名前を……って、お前、もしかして剛か!」
「ああ、そうだよ! 久しぶりだな! 元気だったか!」
伊達剛。小・中学校時代の同級生だ。水泳部に所属し、子どもの頃はよく一緒に外で遊んだり、ゲームをした。
懐かしさに浸っていると、残る二人も宗介の顔を見て、驚いたような表情を浮かべた。
「えっ……なんで宗介まで?」
「はぁ……」
二人とも怪訝そうにこちらを見てくる。
(えーっと……誰だっけ)
戸惑っていると、剛が苦笑し、
「直人と千花だよ」
「えっ!」
言われてようやく思い出した。
黒髪のマッシュヘアの青年が五十嵐直人。両親が医者で、学校でも成績優秀だった。宗介も何度か勉強を教えてもらったことがある。
そして、ミルクティーベージュヘアに今風の服装をした女性が野々原千花。流行に敏感で、クラスでも人気者だった。
(どうしてこのメンツなんだ……?)
胸の奥に、疑問と嫌な予感がじわりと広がる。
(まさか、この三人にも……)
「もしかして、みんなにもあの手紙が届いたのか?」
宗介が尋ねると、三人は無言で顔を見合わせ、それぞれ懐から封筒を取り出した。宗介も自分の手紙を見せたが、文面は、一字一句同じだった。
「で、誰なの? この手紙を出したの」
千花が不機嫌そうに言う。
「知るかよ。お前じゃないのか?」
直人が冷たく返す。
「はぁ? そんなわけないでしょ」
「誰にしても不謹慎だ。行方不明者の名前を使うなんて」
その言葉で、宗介の記憶がよみがえった。
藤岡涼夏。中学二年生のとき、突然行方不明になった、小・中学校の同級生だ。そして——宗介だけでなく、この四人全員と仲が良かった少女だった。
「えっ、あの事件って、まだ解決してなかったのか?」
宗介が口にした瞬間、場の空気が一瞬で静まり返ったのが分かった。直人は不機嫌そうに眉をひそめる。
「知らないのか?」
「あ……うん」
「八年前から何も進展していない。今も行方不明のままだ」
重い沈黙が流れる。宗介は分が悪くなったが、何を言えばいいか思いつかず、セミの鳴き声だけが、やけに耳についた。自分だけが知らなかったという事実が、じわりと宗介の胸に居心地の悪さを広げていく。
やがて剛が頭をかきながら言う。
「まあ、せっかく集まったけど、呼び出した本人が来ないんじゃ意味ねえだろ。帰るか」
「そうだな」
「はぁー、来て損した」
三人はそれぞれ帰ろうとする。
宗介は迷った末、思い切って気になっていたことを尋ねてみた。
「なあ、お前らの封筒に、手紙以外何か入ってなかったか?」
「はぁ?」
「何も入ってなかったわよ」
宗介の背筋に、冷たいものが走った。
(俺だけだったのか……あの黒髪の束が入っていたのは)
急に恐怖が現実味を帯びてきた。
宗介は、逃げるように三人の後を追ってその場を離れた。
* * *
その夜。
夕食と風呂を済ませた宗介は、自室で缶ビールを開けた。
プシュッ——!
よく冷えた缶を口に運ぶ。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
「くぅーっ! うめぇぇぇ!」
火照った体に、冷たいビールが染み渡っていく。
「あー、こんな暑い日はビールが一番だな」
つまみのきゅうりのたたきを一口頬張り、もう一口ビールを飲んだ。
扇風機を回し、網戸からはほんの少し気持ちのいい風が入ってきて、ようやく肩の力が抜けかけた、そのときだった。
「それ、そんなに美味しいの?」
突然、女の子の声が聞こえた。
「ああ、うまいに決まって——」
そこまで言いかけて、宗介の動きが止まる。
(……えっ?)
今、この部屋に、自分以外の女の子の声がした。
ゆっくりと、首だけを横に向けると——そこには、見知らぬ少女が座っていた。
頬杖をつき、興味津々な眼差しでこちらを見つめている。大きな黒い瞳と目が合うと、少女はにこっと笑い、軽く手を挙げた。
「よっ!」
「うわあああああああああっ!!」
宗介の悲鳴は、静かな夜の住宅街に響き渡った。




