剛と直人
少し遡ること、数時間前の夕方。
剛は宗介を家まで送り届け、そのまま直人の家へ向かって車を走らせていた。
窓の外では、ちらほらと街灯に明かりが照らされ始めていた。
しばらく無言が続いたあと、不意に直人が口を開いた。
「今日、剛の家に泊まってもいいか?」
「えっ、別に構わないけど。どうした、急に」
「家に帰りたくない」
その言葉を聞いて、剛は以前、直人と父親の仲が良くなかったことを思い出した。
(また何かあったのか)
詳しく聞くのも野暮な気がして、剛は「そっか」とだけ返し、そのまま車を自宅へ向けた。
* * *
その夜——。
剛の部屋には二組の布団が並べられていた。エアコンの風が静かに部屋を流れ、窓の外からは遠くで鳴く虫の声が聞こえてくる。真っ暗な天井を見上げながら、剛は腕を枕にして呟いた。
「……なぁ、直人。起きてるか?」
「……寝てる」
「……」
「……なぁ、直人」
「なんだっ」
少し不機嫌そうな声が返ってくる。剛は少しためらったあと、ぽつりと言った。
「今でも、涼夏のこと好きなのか?」
「ぶっ、はぁ!?」
予想外の質問だったのか、直人は勢いよく飛び起きた。
「な、なんだよ急に! ていうか、普段は鈍感なくせに、そういうことは気づくんだな」
「だって、お前、分かりやすかったもん」
剛が笑いながら言う。
「中学も高校も、今だってモテてるんだろ?」
「別に、そんなこと……」
直人はそう言いながら、再び横になり、剛に背を向けた。
「やっぱり、涼夏みたいな子と付き合うのか?」
「うるさい」
もう、そのことは聞くなと、言われているみたいに、そっけなく返される。
剛も寝返りを打ち、直人の背中を眺めた。
「ちなみに、俺はもう少し綺麗系の子が好き」
「聞いてない」
そこから会話が途切れ、部屋にはしばらく静寂が落ちる。エアコンの音だけが、静かに響いていた。直人の背中を見つめながら、剛はふっと寂しそうに笑う。
「……涼夏も、いつ消えるか分からないんだ。ちゃんと伝えたほうがいいと思うぞ。後悔しないように」
暗闇の中、その言葉を聞いて直人がぽつりと答えた。
「もう伝えた」
「えっ?いつ?」
「昨日。で、振られた」
あまりにも淡々とした口調だった。だからこそ、剛は返す言葉を失った。
「……そうか」
短くそう言って、天井を見上げる。
数秒の沈黙のあと、剛は勢いよく起き上がった。
「よしっ! 俺が慰めてやる!」
「は!?」
次の瞬間、剛は布団ごと直人に抱きついた。
「わっ! やめろ、バカ! 暑い! 抱きつくな!」
「遠慮するなって!」
「するわ!」
暗い部屋の中に、二人の騒がしい声が響く。
しばらくじゃれ合ったあと、ようやく静けさが戻った。
窓の外では、夏の虫たちが変わらず鳴き続けている。
それぞれが胸の奥に言葉にできない思いを抱えたまま、二人は静かに夜を越していった。
——————
俺は昔から、鈍感だとか無頓着だとか言われることが多かった。
そんな俺が直人の気持ちに気づいたのは、中学一年のバレンタインデーだった。
昼休み、廊下を歩いていると、学ラン姿の直人が女子たちに囲まれていた。
「直人くん、これ受け取ってもらえますか?」
「私からも!」
両手いっぱいのチョコレートを前に、中学一年生の直人は困ったように笑っている。
(あいつも律儀だよな。甘いもの苦手なくせに)
少し悔しい気持ちもあった。
けれど、それ以上に、「モテるやつも大変なんだな」と他人事のように思いながら、その場を通り過ぎた。
廊下を曲がると、今度は宗介と涼夏の姿が目に入った。
「はい、宗ちゃん! 今年はチョコクッキーにしてみました! 味には自信があるよ!」
得意げに胸を張る涼夏。しかし、そのクッキーを目の前にした宗介は露骨に顔をしかめていた。
「な、何、その顔!」
「いや、ちょっと信用できなくて」
「ひどい!」
ぷくっと頬を膨らませる涼夏。
「とりあえず、剛に毒見させてから食べるよ」
「もっとひどい!」
そんなやり取りをしていると、涼夏が俺に気づいた。
「あっ、剛ちゃん!」
小動物みたいに駆け寄ってきた。
「はい、ハッピーバレンタイン!」
そう言って、俺に小さな袋を差し出した。
「ありがとう」
毎年もらっている、ただの義理チョコだ。それでも、正直なところ、俺は少し楽しみにしていた。
「剛ちゃん、また身長伸びたね」
「そうか? 逆に涼夏が縮んだんじゃないのか?」
「私は変わってないよ! 剛ちゃんが大きくなったんだって!」
そう言って、涼夏は俺の背丈を見上げながら笑った。
ふと後ろを見ると、宗介が「早く味見しろ」と言わんばかりに、必死に身振り手振りをしている。俺は思わず苦笑しながら袋を開け、クッキーを一枚口に運んだ。
「どう?」
涼夏が不安そうな顔で尋ねる。
「うん、美味しいよ」
「ほんと!?」
ぱっと表情を明るくした涼夏は、後ろを振り向き宗介へ得意げな視線を向ける。
「ほらね!」
「はぁ……。じゃあ後で食べるよ」
宗介も、ようやく観念したようだった。
——————放課後。
部活へ向かう途中、渡り廊下で涼夏と直人を見つけた。
「直ちゃん、はい。義理クッキー」
「ありがとう」
直人は嬉しそうに袋を受け取る。
すると、涼夏が少し言いづらそうに口を開いた。
「あのね、直ちゃん。お返しなんだけど——」
「春限定の桜ドーナツでしょ?」
「えっ!? なんで分かったの!」
目を丸くする涼夏に、直人は少し照れくさそうに笑った。
「去年、おすずが食べたそうに見てたじゃない」
「え、そんなこと覚えてたの?」
「覚えてるよ」
何気ない会話だった。でも、その瞬間、俺は気づいてしまった。
——ああ、直人は涼夏のことが好きなんだ。
普通、一年前のそんな些細な出来事まで覚えているだろうか。
それに、昼休みに女子たちへ向けていた愛想笑いとは違う。
今、直人が浮かべている笑顔は、あまりにも自然だった。
少し離れた場所から二人のやり取りを眺めながら、俺はぼんやりと考える。
——じゃあ、涼夏はどうなんだろう。直人のことが好きなのだろうか。
そんな、思春期の子どもらしいことを考えながら、俺は部活へ小走りで向かった。




