消失少女
客を殺してしまうところだった。
辺りは薄暗く、バイト先のカフェから帰途につく私
の両手が激しく震えて止まらないのは、何かの病気の
発作のようにすら見える。
こんな事は初めてだった。
しかしそれは、以前までの私がこんなになってしま
う前に、刃物を振るって発作を抑えていた為に過ぎな
いのだということに気付くと、どこか安心すると共に、
私の膨れ上がった狂気が形になって現実に突きつけら
れたようで、怖くなった。
紺との生活。
彼女と過ごした、泥みたいな甘ったるい時間。
彼女の作ったてくれた、優しくて暖かいご飯。
彼女と交わした、他愛も無い口約束。
私の刃を抜かせなかったのは、そういう紺との記憶
だ。彼女との関係を失ってしまった後の未来が、欲求
に支配され、思考を辞めた私の脳内によぎったのだ。
しかし、次はどうなるかは、自分にも分からない。
発作の起きた私に、正常な判断、いや、正常などと
いう言葉を使う権利などもう私にはないのだろうし、
それがどんなものなのかすら、もう掴めなくなってし
まっているのだが、少なくとも、最も私の都合に合う
ような選択が出来るとは、到底思えない。
今回は、運が良かった。
たまたま彼女のことが脳内に浮かび、手が止まり、
それが現在の私にとって最善だっただけで、次も止ま
るかどうか、そしてそれが最善かは定かではない。
今日は連日と比べて、特に気温の高い日だった。風
が生ぬるく、全身を汗が纏わりついてくる不快感があ
る。
いつもよりもゆっくりと時間を掛け、紺の家へ向か
うものの、手の震えは激しくなるばかりだった。
更に、震えに呼応するように心臓が暴れた。聞こえ
るはずのない拍動音が耳の側から聞こえる。
ぷつんと糸が千切れるように、私の脳内が真っ白に
なった。
「おかえり」
すっかり聴き慣れた彼女の声で、私は目を覚ました。
「バイト、今日も、大変だった?」
私を観察しているようでもある彼女の両目は、寝不
足なのか充血していたけど、好ましかった。背の低く
て、子供っぽい顔つきの彼女から発される、あまり似
つかわしく無い低い声が、私の中に強く響く。
次の瞬間、紺の声は衝動に変わった。
手の震えが止まって、心臓の暴走は収まる。
その代わりに、脳内は、思考を辞めた。
体が、まるで私のものでは無くなってしまったみた
いに、勝手に動き出した。唯一感じられるのは、心が、
異常なほど熱く、昂っているということだけだった。
「え、何、どうしたの」
無言で至近距離まで近づく私に、紺は困惑している
ようだった。
そんな彼女の様子を無視して、小さいその体を掴み、
力任せに抱き締める。柑橘系のシャンプーの匂いのす
る髪と、甘い体臭のする首元の匂いを嗅ぐ。
すると、紺からは、左腕を私の腰に回し、右手で頭
を撫でてくれた。
紺の匂い、体温を感じる度に、撫でられる度に、発
作は徐々に緩やかになっていくのが分かる。
愛。
私が欲しかったのは、やはり愛だった。
中身のない、空っぽの言葉を受け取る度に苛立って
しまうのは、愛が、足りなかったからだ。
「ただいま。紺」
「うん、おかえりなさい」
耳元で、紺の声が聞こえてきた。
発作はほぼ収まり、余韻を残すように、心臓が鈍く
収縮している感じがする。しかし、どうしてか、心の
中に湧きあがった異常な程の熱は、消えなかった。
私の首筋に、紺の少しだけ荒くなったような鼻息が
かかる。やけに温かく、生々しい風は心の中の炎を煽
り、熱は増す一方だった。
すぐに、熱は身体中に回った。体感温度が狂って、
感触が分からなくなってきて、何かが膨らんで、張り
裂けるみたいに、胸が痛い。
毒が体を冒すみたいに、私は熱に冒されているのだ
ろうと思う。神経が狂う、機能が鈍る、筋肉が痺れる、
これは、この感情は、毒に相違なかった。
心が熱いと訴えてくる度に、腕の中の紺に、この熱
をぶつけてしまいたくなる。そうすれば、私は楽にな
れる。
しかし、紺がこの感情を受け止めることが出来ない
であろうこと、困らせてしまうであろうことは、目に
見えていた。
あれほど避けようとした、紺との関係が歪んでしま
う可能性が極めて高いことも、分かっていた。私達の
間にある、今の関係性が大好きだった。
「紺」
「何?」
気付いた時には、彼女の名前を呼んでいた。
また、自分勝手なことをしようとしているのだと、
すぐに自覚した。
それでも、この感情を止める事が出来ないのは、私
が、どうしようもなく人間だからだ。消耗品で、気休
めだとしても、愛がなければ、生きられないからだ。
利用するために近づいたはずの紺に、これほどの感
情を抱いてしまうとは思っていなかった。
ただ、思い返してみれば、こんな気持ちになってし
まうのも、当然だったかもしれない
私は、孤独だったのだから。孤独で、一人ぼっちだ
ったのだから。
「愛してる」
幸か不幸か、極限まで熱を帯びた私の声は、酷く掠
れていた。彼女にこの言葉が届いたかどうかは、分か
らなかった。
「え、あ、よく、聞こえなかった。なんて、言った?」
「何でも、ないよ」
私の体を焼いていた熱は、急速に勢いを弱めた。
「藍、暑いし、そろそろ、離してくれない?」
私と目を合わせずに、俯き、紺は言った。
「駄目」
少しだけ、強く抱き締め直す。
紺は、観念したように私の肩に顔を預けた。
まるで、心が、食べられているようだと思った。
私からも、紺の心を食べてあげたいと思った。




