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 劉協は帝位についてから籠の鳥同然の暮らしをしてきた。

 皇帝の地位にありながらその権力を振るったことがない。

 人が羨むような豪奢な生活をしているのは事実である。いまは食料が食べ切れずに倉庫で腐るといわれた『文景の治』の時代ではない。乱世である。食っていけるのは幸せなことである。

 だが、それは簒奪の恐怖と隣り合わせの生活でもある。

 いつ殺されるかわからないのである。

 その日がやってくるかどうかは曹操の心ひとつで決まる。

 そのようなときに嫁いできた曹家の三姉妹。

 曹憲、曹節、曹華。

 曹憲は相変わらず慎ましやかな生活を送っている。曹華は侍女たちと楽しく遊んで暮らしている。

 そして曹節。

 女でありながら、畑を耕して本を読む晴耕雨読の生活を送っている。

 ある日のこと、劉協は畑にやってきた。

 曹節は木陰で休んでいた。一人だった。傍らには鍬があった。

 劉協は鍬を手にとった。

 そして畑を耕し始めた。

 畑を耕すなど生まれてこの方一度もしたことがない。

 これには曹節も驚いた。

「陛下……。農民の真似事など……」

 だが、劉協は笑って答えた。

「高祖の真似をしているだけだ」

 高祖とは、漢の創始者である劉邦のことである。

 劉邦はもともとは農民だった。

 劉協は、汗が噴き出すまで鍬を振り続けた。

 農民にとっては開墾は命がけの戦いである。

 だが、宮廷の生活しか知らない劉協にとっては最高の贅沢でもあった。

 やがて、疲れた劉協は曹節の横にきて休んだ。

 曹節は劉協の汗を拭いてやった。

 これは労働ではなかった。労働の真似事であった。労働というのは手の血豆が潰れても鍬を振り続けることをいう。

 だが、劉協には充実感があった。

 宮廷に渦巻いていた毒気が抜けたような気がする。

 あれから伏皇后は正気を取り戻した。

 ただし、犬を見た途端に耳を押さえて震え上がるという。

 蔡文姫は、しばらくは家で静養しているという。

 夫にはいまだに仔細は知らせていないという。

 知らせたところで心を痛めるだけだと曹節は言った。

 劉協は蔡文姫の書いた『悲憤詩』を思い出した。

 匈奴の襲撃をうけて捕虜となり、辺境に連れ去られる弱き者たちの惨状を切々と描いている。

 実際にその辛い境遇を味わったからこそ書けるのである。

 匈奴の地にて子供を別れて中原に戻ってもなお苦しまねばならないであろうか……。

「ところで、そなたは本当に十七か?」

 曹節は目を丸くした。

 たしかに曹節は年頃の娘とは思えない落ち着き振りである。

 二十……、いや、二十三、四といっても通る。

 三十路の才女である蔡文姫とも堂々と付き合っているのである。

「もっと若く見えますか?」

「いや……」

 それはない、とは言えなかった。

 曹節が大人びているのは見た目ばかりではない。

 親しく付き合っているのは蔡文姫と夏侯惇である。

 曹節よりもはるかに年上である。親子の年の差があるといっても過言ではない。

「そなたは同じ年頃の娘と遊んだことはないのか?」

「生まれてこの方、曹家の娘として育てられてきましたので。人並みの娘というわけには……」

「兄弟姉妹とは遊ばなかったのか?」

「それなりには」

「どのような遊びをしたのか?」

「昔のことなので忘れてしまいましたわ」

 数日前に嫁いだばかりなのに、それはない。

「しかし、こうして肩を並べて座っていると」

「はい?」

「農民の夫婦のようだな」

「まあ」

 曹節は声をたてて笑った。

 よほどおかしかったのかずっと笑い続けている。

「そんなにおかしいか?」

「ええ。夫婦と言ってくださったのが嬉しくて」

 曹節という女は野に咲く野草のようである。

 しっかりとした茎をもつ野草である。

 背が高く痩せていて手足は長く、肌は浅黒い。

 うなじには玉のような汗が浮かんでいる。

 その体臭が隣に座っている劉協の鼻をくすぐった。

「韮をつくって、朕に食べさせると言ったな」

「はい」

「楽しみにしているぞ」

 曹節はにっこりと微笑んだ。

「夫婦だからな」

「まだ本当の夫婦にはなっていませんが」

「え?」

 劉協は曹節の言った言葉を聞き取れなかった。

「すまんがもう一度言ってくれ。

 だが、曹節はそれには答えず畑を耕し始めた。

 曹節という野草には人を惑わす毒が含まれているようであった。

第一章・完

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