第一話 婚約者候補から、偽装婚約者へ
「エレーヌ。おまえには今日から、王都のグラン伯爵家へ行ってもらう」
父の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの中にある妙な湿り気を、エレーヌは聞き逃さなかった。
ヴァロワ男爵家の三女、エレーヌ・ド・ヴァロワ、十七歳。
金色の巻き毛に翠の瞳、顔立ちだけなら愛らしい令嬢と評されることも多いが、本人は自分の容姿より、父が何か後ろめたいことを言おうとしている時の声色の変化に敏感だった。
嫌な予感しかしない。
「グラン伯爵家、でございますか」
「うむ。先方のご子息、レジナルド殿が……その、婚約者候補を探しておいででな」
「婚約者候補」
エレーヌは静かに言葉を繰り返した。
「王都中で近づいた令嬢がなぜか次々と逃げていく。と噂の、あのレジナルド様ですか」
「……そうだ」
「正式な婚約前に、毎回何らかの理由で話が潰れる、と」
「……そうだ」
「それで今度は、うちに話が来たのですね」
「そういうことになる」
父はエレーヌの目を見なかった。
これは完全に駄目な時の反応。
「お父様」
「何だ」
「まさか、もう何か受け取っておられませんよね」
「支度金の前払いを」
「いつ」
「三日前に」
エレーヌは目を閉じた。
三秒かけて息を吸い、五秒かけて吐いた。
「ちなみに、断れない額だったのですか」
「断れない額だった」
「なるほど」
つまり売られたのである。
三女という立場は便利だ。家にとっても、他家にとっても。
長女なら家同士の格や釣り合いを慎重に見る。
次女ならまだ手札として温存することもある。
だが三女は違う。
だいたい最後に回され、都合よく動かされ、そこそこ見目がよければ送り込み先はいくらでも見つかる。
エレーヌはそのことを、十七年の人生でよく学んでいた。
「わかりました。参ります」
「すまんな、エレーヌ」
「本当にそう思っておいででしたら、今後は前払いを受け取る前に相談してくださいませ」
父は気まずそうに咳払いした。
たぶん無理だろう、とエレーヌは思った。
こうして彼女は、王都のグラン伯爵家へ送られることになった。
グラン伯爵家の屋敷は、実家とは比べものにならないほど広く、豪奢だった。
磨き込まれた大理石の廊下、吹き抜けの天井、庭園の噴水、行き届いた使用人たち。
そして到着早々、エレーヌを出迎えたのは当の婚約者候補ではなく、老執事と一通の手紙。
「レジナルド坊ちゃまからでございます」
やっぱり嫌な予感しかしない。
エレーヌはその場で封を切った。
『急用につき王都を離れる。屋敷で好きにしていてくれ。戻りは三ヶ月後くらいになるかもしれない』
達筆だった。
内容は最低だった。
「……は?」
「坊ちゃまは昨日、騎士団の緊急任務で北部国境へ発たれました。とはいえ、お嬢様を追い返すわけにもまいりませんので、どうぞごゆっくりお過ごしください」
婚約者候補として呼びつけられたのに、本人不在。
あまりにも雑な扱いだが、ここで怒っても仕方がない。
「では」
エレーヌは手紙を畳み、執事を見た。
「図書室はありますか」
「……はい?」
「図書室です。大きいものであれば、なおよろしいのですが」
「ございます」
「案内をお願いいたします」
執事は一瞬だけ目を丸くしたあと、深く一礼した。
後にグラン家の使用人たちは語ることになる。
あの日、普通の令嬢なら怒るか泣くか帰るかしただろう。
だがエレーヌ・ド・ヴァロワは違った。
婚約者候補として雑に放置されたその日に、図書室の蔵書目録を作り始めたのである。
レジナルドが戻ったのは、それからきっかり三ヶ月後のこと。
旅装を解いたばかりの長身の青年は、自分の図書室で勝手知ったる顔で紅茶を飲みながら本を読む見知らぬ令嬢を見て、しばし固まった。
「……誰?」
「エレーヌ・ド・ヴァロワでございます」
「ヴァロワ」
「婚約者候補として呼ばれた者です」
「あ」
「思い出されましたか」
「思い出した」
思い出すのが遅い。
レジナルド・グランは見目だけなら文句のつけようがなかった。
明るい栗色の髪に整った顔立ち、騎士らしい体格、家柄も申し分ない。
だが話してみるとわかる。
この人は、恋愛にだけ致命的な欠陥がある。
悪人ではない。
むしろ人はいい。
ただ、とにかく恋愛絡みになると判断力が霧散するのだ。
「……長らく放置してしまってすまなかった」
「快適でしたので問題ありません」
「快適」
「食事は美味しく、使用人の皆様は親切で、図書室の蔵書は素晴らしいです」
「そうか……」
「はい」
レジナルドは何か言いたげに口を開こうとした。
苦情が来ると思っていたのだろう。
来なかった。
それどころか、この令嬢は妙に落ち着いていた。
結局その日から、エレーヌは何となくそのままグラン家に滞在することになった。
正式な婚約はしていない。
だが追い返されることもない。
曖昧なまま、しかし居心地よく、日々は過ぎていく。
そして一ヶ月後、レジナルドはたいそう申し訳なさそうな顔でエレーヌの前に現れた。
「折り入って頼みがある」
「はい」
「実は、好きな人がいる」
「そうですか」
「もっと驚いてくれないか」
「その予感はしておりました」
「予感」
「目が泳いでいますので」
レジナルドは本当に目を泳がせた。
「侯爵家の令嬢で、マリアンヌというんだが。彼女の父親が交際に反対していて……君が婚約者としてここにいてくれれば、周囲の目を誤魔化せるかと思って」
「つまり私は盾役ですね」
「……そうなる」
「承知しました」
「早いな」
「書庫の新刊購入予算を倍にしていただけるなら」
「倍」
「倍です」
「わかった」
こうしてエレーヌは、問題のある婚約者候補から、偽装婚約者へと用途変更された。
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