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【連載完結】身代わりから始まる、狂おしいほどの溺愛が私を待っていました。  作者: 逆立ちハムスター


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6/7

灰の記憶と、遠い雨音

 窓の外には、どこまでも緩やかな緑の丘陵地帯が広がっている。

 王都のあの喧騒や、魔灯の淡い光に満ちた夜の美しさとは全く違う、太陽の光がそのまま大地に降り注ぐ、静かで素朴な田舎町。

 私は今、王都から馬車で数日ほど離れた、ローゼンベルク侯爵家が人知れず所有する古い別邸に身を隠していた。


 身に纏っているのは、あの夜に公爵邸から着て出た、色褪せた茶色のリネンワンピースだ。仕立て屋の針子だった頃の私。泥水をすすっていたスラムの孤児としての私。そのどれでもあり、どれでもない、ただの『リリアーナ』としての時間が、ここでは穏やかに流れていた。


 午前中は、別邸の老管理人の手伝いをして、小さな菜園の土を弄ったり、ハーブを摘んだりして過ごす。

 土に触れ、指先が黒く汚れるたび、私は自分が生きていることを実感した。公爵邸にいた頃は、爪の先まで磨き上げられ、汚れ一つ許されなかった。あの完璧に管理された美しさは、やはり私を窒息させるための蜘蛛の糸だったのだと、離れてみてよくわかる。


 けれど。

 どれだけ身体を動かし、自分を取り戻そうとしても、胸の奥に灯ったあの小さな炎——ユリウスへの断ち切れぬ愛おしさは、消えてはくれなかった。


(今頃、あの人はどうしているかしら……)


 摘み取ったミントの葉を籠に入れながら、私は遠い空を見上げる。

 私の残した手紙を読んで、彼は怒り狂っただろうか。それとも、身代わりが逃げ出したことに呆れ、すぐにまた新しい『顔の似た娘』を探し始めたのだろうか。

 もし後者なら、私の心は完全に死んでしまう。でも、ルーカス侯爵の言葉を信じるなら、彼は今——。


「相変わらず、貴族の温室で育ったとは思えないほど、土に馴染んでいるな」


 背後から、低く皮肉めいた、けれどどこか温かみのある声が響いた。

 振り返ると、そこには旅塵に汚れたマントを羽織ったルーカス侯爵が立っていた。王都での公務やユリウスの監視の目を潜り抜け、一月に一度、こうして私の様子を見にやってくるのだ。


「お久しぶりです、ルーカス様。お仕事はお忙しいのに、わざわざ申し訳ありません」

「ふん、私の仕事はこれも含まれている。それにしても、その格好はなんだ。いくら平民の服に戻ったからといって、ローゼンベルクの血を引く者と同じ顔をした女が、泥だらけで芋を掘っている姿は、あまり見栄えが良いものではないな」


 ルーカスは呆れたように息を吐きながらも、懐から上質なハンカチを取り出し、私の額の汗を乱暴に、けれどどこか気遣うように拭った。


「ありがとうございます。でも、これが私にとっての『本当の生活』なのです。人形のように座っているだけでは、心が腐ってしまいますから」

「……お前は本当に、立派だな。あの生活を味わった後でなら、大抵の者は、土に触れただけで三日は寝込んで抗議しただろう」


 ルーカスの紫色の瞳に、ふっと柔らかい光が宿る。

 最初の頃は、私の中に死んだ妹の幻影を見ては不快感を露わにしていた彼だったが、こうして過ごすうちに、私という人間の『中身』を明確に区別して見てくれるようになっていた。彼は、私をセラフィナの代わりにしているのではない。リリアーナという一人の女の、その気高さに敬意を払い始めてくれているのだ。


「中に入ろう。お前に、王都の……いや、ユリウスの近況を伝えに来た」


 その言葉に、私の心臓がドクンと跳ね上がった。

 私は籠を抱え、ルーカスと共に別邸の簡素なリビングへと向かった。


────


 老管理人が淹れてくれた粗末な茶を口にしながら、ルーカスは静かに語り始めた。窓から差し込む午後の光が、彼の険しい横顔を照らし出す。


「……あいつは……完全に壊れたよ、リリアーナ」


 ルーカスの第一声は、地獄の底を見てきたかのような重みを持っていた。


「お前が消えたあの朝から、クロイツェル公爵邸はさながら地獄だ。ユリウスは直ちに私兵を総動員し、王都の全域を調査させていた。スラム街は文字通りひっくり返され、大勢に金がばら撒かれ、情報に錯綜に困憊していたな。もちろん、我がローゼンベルク家にも、あいつ自らが剣を帯びて乗り込んできたよ。お前を隠していないか、とな」


「ユリウス様が、自ら……?」


「ああ。そういえば、いつぞやの夜会での優雅な公爵閣下の姿はどこへやら、髪は乱れ、目は血走り、まるで最愛の獲物を奪われた飢えた狼のようだった。私が『お前が壊した人形のことなど知らん』と突き放すと、あいつは私の目の前で、本気で剣を抜きかけた。クロードが必死に止めなければ、今頃どちらかが死んでいたやもしれん」


 ルーカスは冷ややかに笑ったが、その瞳の奥には、ユリウスのその異常なまでの執着に対する、本物の恐怖と憐れみが混じっていた。


「だが、何よりも異常なのは、それからだ」

 ルーカスはカップをテーブルに置き、私を真っ直ぐに見つめた。

「お前を追う手がかりが完全に途絶えた後——おそらく、私が裏で手を引いていると察しつつも証拠が掴めないあいつは、公務の大半を放り出し、自ら王都の裏通りを彷徨い歩くようになった。それも、あの高価な貴族の服を脱ぎ捨て、平民の、それも薄汚れた外套を羽織ってな」


 胸の奥が、ギチギチと音を立てて締め付けられる。

 あの気高く美しく、汚れ一つない氷の公爵が、自ら泥にまみれて下町を這いずり回っている?


「スラムのドブ川を覗き込み、浮浪者たちに銀貨をバラ撒きながら、お前の特徴を触れ回っているそうだ。『銀髪で、紫の瞳を持った、リリアーナという名の少女を知らないか』と。……セラフィナのことは、一言も口にしない。あいつが探しているのは、お前だ。リリアーナ」


「…………」


 私は唇を強く噛み締めた。涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。

 彼は私を探している? 本当に?

 セラフィナではなく、リリアーナという名前を呼んで。


「さらに、クロードからの密告によるとな……」

 ルーカスは少し声を潜めた。

「ユリウスは、あの西館の禁忌の部屋——セラフィナの肖像画が敷き詰められていたアトリエに入り、そこに飾られていた何百枚もの絵画を、すべて自分の手で引き剥がし、地下倉庫にしまい込んだそうだ」


「え……!? あの肖像画を、全部……?」


「ああ。一枚残らずな。クロードが『何をなさっているのですか』という言葉すら聞かず、あいつは泣きながら、狂ったように絵を片付け続けたという。そして、最後に残った中央の巨大な肖像画を外す時、あいつはこう、クロードに呟いたらしい」


 ルーカスは一瞬、言葉を切り、私の目を深く見つめた。


『私は彼女を見ていなかった。彼女が残した温もりを、優しさを、すべて私の都合の良い幻影で塗り潰していた。私が今、狂うほどに求めているのは……あの日、私の隣で確かに生きていた、リリアーナの笑顔だ。過去の亡霊じゃない。私は彼女に、なんて酷いことをしてしまったんだ……と』


 「空になったアトリエの床で、あいつはただ、お前の名前を呼び続けているそうだ。……言うまでもないだえおうが、あいつは初めて気づいたんだよ。自分がどれほど残酷な男だったか。そして、自分が本当に愛していたのが、死んだ……んんっ、セラフィナではなく、今を生きるお前だったということに。……喪失して初めて、本当の恋を自覚したんだ。あまりにも遅すぎる、あいつにとっては、地獄の始まりだな」


 ルーカスの言葉が終わると、部屋の中に静かな沈黙が降りてきた。


 しかし、私の胸の中は、激しい感情の嵐が吹き荒れていた。

 ユリウス。あなたがそんな風に苦しんでいるなんて。あなたが、過去の亡霊を自らの手で捨て去り、私という存在に飢えて泣いているなんて。

 今すぐにでも、王都へ戻りたかった。彼の元へ駆け寄り、その泥に汚れた手を握りしめ、彼の胸に飛び込んで、「私はここにいるわ」と告げたかった。彼を抱きしめて、その涙を拭ってあげたかった。


 ——けれど。

 私は握りしめた拳をさらに強く震わせ、その衝動を必死に抑え込んだ。


「……まだ戻りません」


 私の静かな、けれど断固とした声に、ルーカスは驚いたように眉を上げた。


「戻らない? あいつを愛していると言った。あいつは過去を捨て、お前を求めている。望み通りの展開じゃないのか? なぜ戻らない?」


「ユリウス様は今、激しい『喪失感』と『罪悪感』の中にいます。もし私が今すぐ彼の前に現れたら、彼は安堵し、また元の生活に戻るでしょう。……でも、それでは足りないと……」


 私は立ち上がり、窓の外の広大な景色を見つめた。


「彼はまだ、本当の意味で『自分自身の罪』と向き合っていません。ただ、おもちゃを失った子供のように焦っているだけかもしれない。私が彼に突きつけたいのは、一瞬の情熱ではなく、一生を懸けて一人の人間を愛するという、本当の覚悟です。もう悲劇を繰り返して欲しくないのです。ユリウス……そしてセラフィナ様の為にも」


 私は振り返り、ルーカスを真っ直ぐに見つめた。


「彼がプライドをすべて捨て、公爵としての権威も、過去の栄光もすべて失ってもなお、泥臭く私を求め続けるのか。私という不完全な人間がいない世界で、どれほどの孤独と絶望を味わい、それでも私を愛し続けると言えるのか。……それを、私は見極めたいのです。亡きセラフィナ様が、命を懸けて彼に教えようとした『人間の心の重み』を、彼が本当の意味で理解するまで、私は彼の前に姿を現しません」


 それは私の最後の我儘であり、彼に対する最大の愛の試練だった。

 私はただの身代わり人形ではない。彼の魂を救い、そして私自身の愛を本物にするための。


 ルーカスは私の言葉を聞いて、しばらく呆気にとられたように私を見つめていた。

 やがて彼は天を仰ぎ、声を上げて笑い出した。


「ハハハ! 素晴らしいじゃないか。本当にお前という女は……最高に気高くて、最高に苛烈だな! あいつには勿体ないほどの女だ!」


 ルーカスは笑い止むと、その紫色の瞳に、本物の敬愛の念を浮かべて私に一歩近づいた。


「いいだろう、リリアーナ。お前のその賭け、私も船に乗った以上、最後まで付き合ってやる。ユリウスがどこまで無様に這いつくばるか、この私も特等席で見届けてやろう。……お前を隠す場所は、ここだけじゃない。あいつの捜索の手が迫れば、次はさらに遠い領地へ移動させよう。あいつが本当の『人間』に戻るか、ただの『屍』になるか……徹底的に試してやればいい」


「……ありがとうございます、ルーカス様」


 私は、彼の差し出してくれた手に、自分の泥の付いた手を重ねた。

 私たちは、奇妙な戦友のような絆で結ばれていた。


────


 その頃、王都のクロイツェル公爵邸。

 かつて華やかだったその屋敷は、今や完全に生気を失い、まるで巨大な墓標のように佇んでいた。


 ユリウスの執務室。

 机の上には、未処理の書類が山のように積まれており、床には割れたワインボトルと、真っ黒に焦げた肖像画の額縁の残骸が転がっている。


 ユリウスは、椅子の背もたれに身体を預け、虚ろな目で天井を見つめていた。

 彼の美しいプラチナブロンドの髪はボサボサに荒れ、顎にはうっすらと無精髭が伸びている。仕立ての良いシャツはあちこちが汚れ、かつての「氷の公爵」としての威厳は、どこにも残っていなかった。


 トントン、と遠慮がちなノックの音がして、クロードが入ってきた。


「……旦那様。下町、および東の街道の捜索結果が出ました」

「……どうだった」


 ユリウスの声は、カサカサに乾いた砂のようだった。


「……やはり、手がかりはございません。彼女がかつて暮らしていたスラムの仲間たちも、あの日以降、彼女の姿は一度も見ていないと。……仕立て屋の者たちも、何も知らないと言っております」


 クロードの報告に、ユリウスはフッと、力なく笑った。


「そうか……。また、見つからないのか……」


 彼は両手で顔を覆い、深く、深い絶望の吐息を漏らした。

 二ヶ月。彼女が消えてから、もう二ヶ月が経とうとしていた。公爵家の権力、財力、人脈のすべてを注ぎ込み、王都中を網の目のように捜索させたというのに、彼女の影すら掴めない。

 まるで、最初から『リリアーナ』という女性など、この世界に存在していなかったかのように。


「リリアーナ……なぜだ……どこにいるんだ……」


 彼は机の上の書類を乱暴に払いのけ、頭を抱え込んだ。

 書類が床に散らばる中、彼の手元に残ったのは、あの日彼女が残していった、あの角張った不器用な文字の手紙だった。

 彼はそれを、もう何百回と読み返していた。擦り切れ、インクが彼の涙で滲んでしまったその紙切れだけが、今の彼の、唯一の生きるよすがだった。


『私は誰かの身代わりとして生きるほど、自分を安売りするつもりはありません』


 彼女のその言葉が、毎日、毎日、彼の心臓を鋭い刃で抉り続ける。


「私は間違っていた……」

 ユリウスは掠れた声で呟いた。

「セラフィナを失った痛みに耐えかねて、私は、君という一人の輝かしい命を……セラフィナと同じように、ただの道具として扱ってしまった。君のあの優しい微笑みも、健気な努力も、すべて……私が、私の為に利用していたんだ。君が苦しんでいたことに、私は気づこうともしなかった……」


 彼は立ち上がり、ふらふらとした足取りで部屋の隅にあるクローゼットを開けた。

 そこには、彼女のために作らせた、あのミッドナイトブルーのドレスが静かに掛けられている。

 彼はそのドレスの袖を掴み、自らの顔を埋めた。


 漂ってくるのは、やはりミュゲの香りではない。

 あの日、彼女が命を懸けて洗い流し、残していった、あの素朴で、温かい、リリアーナ自身の匂い。


「ああ……リリアーナ……」


 ユリウスの目から、再びとめどなく涙が溢れ出た。

 彼はドレスをきつく掻き抱き、床に膝をついて、子供のように激しく泣きじゃくった。


「すまない……すまない、リリアーナ……! 戻ってきてくれ……頼むから、もう一度、私の名前を呼んでくれ……。私は、公爵の地位も、名誉も、何もかもいらない! ただ、君の、君自身のあの笑顔がもう一度見たいんだ……! 私が愛しているのは、君なんだ、リリアーナ……!」


 彼の絶望の叫びは、豪華な部屋に虚しく響き渡るだけだった。

 プライドをすべて捨て、泥にまみれ、狂気の果てに本当の愛を知った若き公爵。

 けれど、彼が求めて止まない女性は、もう彼の鳥籠の中にはいない。

 終わりのない焦燥と、身を切るような後悔の日々。

 ユリウス・フォン・クロイツェル公爵の地獄の季節となった。

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