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【連載完結】身代わりから始まる、狂おしいほどの溺愛が私を待っていました。  作者: 逆立ちハムスター


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陽だまりの肖像

 王都から遠く離れた南部の港町・ヴァレリア。

 一年中温暖な気候と、海からの潮風、そして活気あふれる商人たちの声が響くこの街で、私は新しい生活を送っていた。


 ルーカス侯爵が手配してくれた隠れ家をいくつか転々とした後、私は「自分の足で生きたい」と彼に頼み込み、この街で小さな仕立て屋の針子として雇ってもらった。

 かつて王都の下町で培った技術は、ここでも十分に通用した。いや、むしろあのクロイツェル公爵邸で、最高級のシルクやベルベット、複雑な刺繍の構造を間近で見て、実際に身に纏った経験が、私の仕立てる服に独特の気品と新しいアイデアをもたらしていた。

 今では「リリアの仕立てるドレスは、動きやすいのにどこか貴族のように優雅だ」と、街の女性たちや裕福な商人の奥方から指名を受けるまでになっていた。


 シャキッ、シャキッと、裁ち鋏が厚手の麻布を小気味よく切っていく。

 私の指先には、再び固いペンタコができ、針を刺し間違えた小さな傷跡がいくつも残っている。公爵邸にいた頃の、あの白魚のような滑らかな手とは程遠い。

 けれど、私はこの自身の手が好きだった。誰かの身代わりとして飾り立てられるためではなく、私自身の技術と才で、日々の生活を稼ぎ出している証だったからだ。


「リリア、ちょっと休憩にしない? ハーブティーを淹れたわよ」


 店の奥から、恰幅の良い女店主が声をかけてくれる。私は「ありがとうございます」と微笑み、裁ち鋏を置いて立ち上がった。

 窓の外を見ると、南部の街には珍しく、しとしとと冷たい雨が降っていた。

 雨の匂いを嗅ぐと、どうしても思い出してしまう。

 王都の冷たい雨。スラムの路地裏で泥だらけになっていた私を、ユリウスが拾い上げてくれたあの日のことを。


 あれから……もう一年ほどが経っていた。

 ルーカス侯爵からの手紙は、半年前を最後に途絶えている。最後に受け取った手紙には、「ユリウスは完全に公爵としての責務に復帰した。狂乱の時期は過ぎたようだ。これ以上、私から言うべき事はないだろう」とだけ記されていた。


 ユリウスが正気を取り戻したのなら、それは良いことだ。

 きっと、私のことなどとうに諦め、今は立派な公爵として、新しい(そして今度こそ顔の似ていない)ふさわしい婚約者を見つけているかもしれない。

 そう思うと、胸の奥がチクリと痛む。けれど、これは私が選んだ道だ。誰かの幻影として愛されるくらいなら、一人で気高く生きる方がいい。その覚悟に、未練や嘘はなかった。


 カラン、コロン。


 雨音を遮るように、店の入り口のドアベルが静かに鳴った。

 珍しい。こんな雨の日に客だろうか。私はエプロンの皺を伸ばし、「いらっしゃいませ」と営業用の笑顔を浮かべて、店の土間へと向かった。


 そこに立っていたのは、背の高い一人の男性だった。

 雨除けの厚手の上質な外套を羽織り、深くフードを被っている。しかし、その外套から覗く仕立ての良い革靴や、長身から放たれる圧倒的な存在感は、この陽気な港町には到底そぐわない、洗練された冷気を纏っていた。


「あ、あの……」


 私が戸惑いの声を上げた瞬間、その男性はゆっくりとフードを下ろした。

 薄暗い店内の中で、そこだけが発光しているかのような、美しいプラチナブロンドの髪。

 そして氷のように透き通った瞳。


「……ユリウス様!?」


 手から、持っていたメジャーが滑り落ちた。

 久しぶりに見る彼は、私の記憶に強く刻まれていた、あの「ボロボロに壊れた狂人」の姿ではなかった。以前のように、いや、以前よりもさらに洗練された、一分の隙もない「クロイツェル公爵閣下」としての完璧な佇まいを取り戻していた。

 けれど、何かが決定的に違った。

 かつての彼を覆っていた、あの張り詰めた氷のような狂気や、どこか遠くの幻影を見つめているような虚ろさが、跡形もなく消え去っている。その力強い瞳は、静かな、けれど熱を帯びた強い光を放ち、ただ真っ直ぐに「私」だけを射抜いていた。


「……見つけるのに、だいぶ掛かってしまった」


 彼の声は、低く、少しだけ震えていた。

 私の心臓が早鐘のように打ち始める。逃げ出した時の記憶が蘇り、私は咄嗟に一歩、後ずさった。

 彼が完璧な貴族の姿を取り戻しているということは、やはり私を、あの「都合の良い人形」として連れ戻しに来たのだ。そう直感した私の口から、冷たい拒絶の言葉が自動的にこぼれ落ちた。


「……お引き取りください、公爵閣下。私は、ここでの生活を気に入っております」

「リリアーナ」

「私は……私はセラフィナ様にはなれません! 亡き恋人の身代わりを求めていらっしゃるなら、どうか、どうかお引き取りを。私は、私の人生を……っ!」


 私が言い終わるより早く、ユリウスは大きな歩幅で距離を詰め、私の両手をそっと、けれど絶対に逃がさない強さで包み込んだ。


「違う」


 彼が私の手を握った瞬間、その手から伝わってくる熱と震えに、私は息を呑んだ。


「違うんだ、リリアーナ。私は、君を連れ戻して『身代わり』にするために来たんじゃない」


 ユリウスは、そう言いながら、ゆっくりとその場に片膝をついた。

 信じられない光景だった。王の次に尊いとされる大貴族の当主が、平民の仕立て屋の、土埃の舞う床の上に膝をつき、私を下から見上げているのだ。


「ユリウス様……! 何を、おやめください、服が汚れてしまいます……!」


「構わない。私の服など、君がこの一年で流した汗と涙に比べれば、何ほどの価値もない」


 ユリウスは私を見上げる。その美しい蒼玉の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちていた。完璧な貴族の仮面が剥がれ落ち、そこには、ただ一人の女性に許しを乞う、一人の不器用な男の姿があった。


「まずは感謝を、リリアーナ。私を過去という鎖から解き放ってくれただけでなく、自身を取り戻すことを可能にしてくれた。私は……私は愚かだった。愛という名目で愛する者を縛り、自身に都合の良い幻影を押し付け、君という尊い一人の人間の心を殺そうとした。失った絶望から逃げるために、君の優しさに甘え、君を消費していた。……最低の男だ」


 彼の涙が、私の手にぽたりと落ちる。


「君が去って、私は狂った。街中を這いずり回り、君を探した。そして……君がいない世界で初めて気づいたんだ。私が狂うほど求めていたのは、君が淹れてくれる少し温い紅茶や、マナーを間違えて赤面する君の顔、不器用だけど一生懸命に私を気遣ってくれる、あの時の君だと……『リリアーナ』という、君そのものだったということに」


 ユリウスは、私の少し荒れた指先——針の跡が残り、ペンタコができた私の指先を、愛おしそうに両手で包み込み、そこに恭しく唇を落とした。

 かつて彼が、完璧な公爵令嬢の白魚のような手を求めていたのなら、今の私の手は醜く映るはずだ。けれど彼は、その荒れた手を、まるで世界で一番尊い宝石を扱うように撫でた。


「西館の肖像画は、すべて私がこの手で片付けた。過去との決別で燃やそうとも思ったんだが、それは違うと思ってな。ルーカスが引き取ってくれたよ。今頃、倉庫に置いてくれているだろう。セラフィナの死の真実からも、私の犯した君への罪からも、もう目を逸らさない。絶対に。セラフィナは、私の愚かさで死に追いやった……」


 過去の否定。

 それは彼が一年間、血を吐くような苦しみの中で己と向き合い、狂気という名の病から自力で抜け出した証だった。亡霊を捨て去り、彼はついに、現実の地に足をついたのだ。


「リリアーナ。君は、誰の身代わりでもない。気高くて、強くて、泥水の中からでも、自らの足で立ち上がる、私にはもったいないほどに美しい、唯一無二の女性だ」


 ユリウスは膝をついたまま、真っ直ぐに私を見つめ、声の限りに訴えた。


「だから、どうか……どうか、身代わりとしてではなく、『リリアーナ』として、私を愛してはくれないか。完璧な人形なんてもういらない。怒った時は私を叱ってくれ。泣きたい時は私の胸で泣いてくれ。君の生きた言葉で、私に話しかけてほしい。……私と、結婚して欲しい」


 それは過去の謝罪などという生易しいものではない。

 すべてを失う覚悟を持った、一人の男の、魂からの求婚だった。


 私は彼の涙で濡れた顔を見つめた。

 一年前に彼に突きつけた、「過去の亡霊ではなく、私を見極めろ」という試練。彼はプライドも、過去の栄光も、亡霊への執着もすべて捨て去り、血みどろになって這い上がり、今ここにたどり着いたのだ。


「……本当に、私でいいのですか」

 私の声も、震えていた。

「私は、貴族の教養なんてすぐに忘れてしまいます。お茶会では、きっと失敗するかもしれませんし、あなたと意見が違えば、平民の言葉で言い返すかもしれません。お淑やかな公爵夫人になんて、なれませんよ」


「それでいい。いや、寧ろそれがいい。君が言い返すなら、私は何度でも君と議論しよう。君が失敗するなら、私が何度でも君を庇おう。君が君らしく笑ってくれるなら、私は他に何もいらない」


 その言葉に、私の中で張り詰めていた最後の糸が、ふつりと解けた。

 目から温かい涙が溢れ出す。

 私は彼の手を握り返し、ゆっくりとその場にしゃがみ込んで、彼の目線に合わせた。


「……ええ。私も、あなたを愛しています、ユリウス様」


 私がそう告げた瞬間、ユリウスは耐えきれないというように私の肩を引き寄せ、その腕の中に強く、強く抱きしめた。

 雨の匂いと、微かなインクの匂い。そして彼自身の、あたたかくて確かな鼓動が伝わってくる。

 私は彼の広い背中に腕を回し、顔を埋めて、声を出して泣いた。

 身代わりとしての悲しい涙ではなく、一人の女性として、心から愛する人に愛された喜びの涙を。


────


 ——それから三年後。


 王都のクロイツェル公爵邸は、かつての暗く重苦しい空気が嘘のように、陽光と活気に満ち溢れていた。

 庭園には、あの冷たい白薔薇だけでなく、私が南部の街で愛した色鮮やかな花々が咲き乱れ、メイドたちも怯えた顔ではなく、朗らかな笑顔で屋敷を行き交っている。


「リリアーナ、そんなに急ぐと転ぶぞ。君はもう、一人だけの身体ではないのだから」


 大階段を少し駆け上がった私に、後ろから追いついたユリウスが、呆れたように、けれど極上の甘さを湛えた声で注意してきた。

 私は振り返り、少しだけ膨らみ始めた自分のお腹を撫でながら、悪戯っぽく微笑んだ。


「過保護すぎますわ、ユリウス。私はこれでも、昔は王都中の屋根を飛び回っていたんですからね」

「ああ、知っているとも。我が家のじゃじゃ馬な公爵夫人殿。だが、今の君にもしものことがあれば、私は今度こそ息絶えてしまうからもしれない」


 ユリウスは優しく私の腰に腕を回し、私の額にそっと口付けた。

 正式に公爵夫人として迎えられた私は、最初は社交界で「身元不明の平民上がり」と陰口を叩かれたりもした。けれど、ユリウスがまるで猛犬のように私を庇い、私自身も(クロードに叩き込まれたあの地獄のマナーを駆使して)堂々と渡り歩いた結果、今では誰も文句を言う者はいなくなった。

 ルーカス侯爵も、今では我が家に頻繁に遊びに来ては、「相変わらずお前たちは暑苦しい」と憎まれ口を叩きながら、私のお腹の子供の誕生を誰よりも楽しみにしている。


「さあ、着いたぞ」


 ユリウスにエスコートされて辿り着いたのは、屋敷の中で最も日当たりの良い、大広間だった。

 かつて西館のアトリエに数え切れないほど飾られていた、亡きセラフィナの肖像画。それらがすべて空に帰した後、この屋敷には絵画というものが一つもなくなっていた。


 しかし今日、この大広間の一番目立つ場所に、一枚の巨大な新しい絵画が飾られたのだ。

 王都で一番の宮廷画家に、数ヶ月かけて描かせた大作。


 そこに描かれているのは、陽だまりの中、色鮮やかな初夏の花が咲く庭園のベンチで、仲睦まじく寄り添い合う二人の男女。

 プラチナブロンドの髪を輝かせ、とろけるような優しい笑顔で妻を見つめるユリウス。

 そしてその隣で、彼が贈ったドレスではなく、自らがデザインし仕立てた、動きやすくも美しい淡い萌黄色のドレスを身に纏い、最高に幸せそうな笑顔を弾けさせている私、リリアーナ。


 完璧な公爵夫妻の威厳ある肖像画などではなく、ただそこにあるのは、互いを深く愛し合い、今を懸命に生きる「二人の人間」の、ありのままの姿だった。


「どうだ? 画家には、君の笑顔を完璧に再現するよう、徹夜で指示を出したんだが」

「もう、ユリウスったら。画家の方が泣いていらっしゃいましたよ」


 私がくすくすと笑うと、ユリウスも釣られたように笑い声を上げた。


「しかし素晴らしい絵だ。……だが、やはり実物の君には遠く及ばないな」

「お上手ですこと」


 私たちは肖像画の前で見つめ合い、自然と手を絡ませた。

 私の指先には、今でも時よりプライベートで仕立てる針仕事の跡が残っている。ユリウスは親指でその硬い部分を愛おしそうに撫でた。


 鳥籠の中で、誰かの身代わりとして死んでいくはずだった私の人生は、自らの足で一歩を踏み出したことで、こんなにも眩しい光の中へとたどり着いた。

 失われた過去の幻影はもう、どこにもない。

 ここにあるのは、確かな温もりと、新しく紡がれていく、私たちだけの未来だ。


「愛しているよ、リリアーナ。私の、たった一人の真実の妻」

「私もです、ユリウス。……今日からまた、よろしくお願いしますね」


 差し込む陽光が、肖像画の中の二人と、現実の二人を優しく包み込む。

 私たちは、いつまでも終わらない甘い微笑みを交わし合い、静かに寄り添い続けるのだった。

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