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【連載完結】身代わりから始まる、狂おしいほどの溺愛が私を待っていました。  作者: 逆立ちハムスター


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5/7

鳥籠を破る羽音

 革張りの小さな手帳をきつく胸に抱きしめたまま、私は西館の冷たい床の上で、どれほどの時間を過ごしただろう。

 窓から差し込む月光の位置が少しずつ移動し、壁に掛けられたセラフィナの肖像画の顔をじわじわと闇に沈めていく。


「……私は、お人形じゃない」


 ぽつりと、掠れた声が口からこぼれた。それは彼女が手帳に書き残した、血を吐くような叫びであり、同時に今の私の、魂の底からの拒絶でもあった。


 涙は、もう完全に乾いていた。

 胸の奥で燻っていたドス黒い絶望は、彼女の本当の想いに触れたことで、静かで、けれど絶対に消えない「誇り」という名の炎へと変わっていく。

 私はゆっくりと立ち上がった。膝の震えはもう止まっていた。壁の肖像画を見上げる。


「あなたも苦しかったのね、セラフィナ様」


 ユリウスに愛され、すべてを与えられ、それでも自分自身を奪われ続けた悲劇。彼女はその息苦しさに耐えかねて、鳥籠の扉を自ら死という最悪の形でこじ開けたのだ。

 だったら——私はどうする?

 このまま、ユリウスの望む「都合の良いお人形」として、死んだ彼女のレプリカを演じ続けるのか? 彼女が命を懸けて拒絶したその歪んだ愛の座に、何も知らない素振りで収まり続けるのか?


「いいえ。私は……リリアーナよ」


 前世では仕事漬けだったけれど、それでも自由がそこには確かにあった。この世界ではスラムの底を這いずり回って、それでも必死に掴み取ってきた、私の命。私の名前。私は今まで必死に自分の人生を生きてきた。

 顔が似ているからといって、他人の人生の、それも歪められた幻影の器として自分を消費させてなるものか。私は誰かの身代わりとして生きるほど、自分を安売りしない。そんな惨めな生き方を選ぶくらいなら、またあの泥水の路地裏へ戻った方が何百倍もマシだ。


 私は手帳を大切に懐に収めると、迷いのない足取りで自室へと戻った。


 部屋に入ると、私はまず大浴場へと向かった。湯を浴び、贅沢な石鹸を泡立てて、体中を狂ったように洗い流す。首筋に、髪の毛に、肌の隅々にまで染み付いていた、あの重たくて甘いミュゲの香水を、一滴残らず消し去るために。爪が立つほどに肌を擦り、香りが完全に消え、ただの湯の匂いだけになった時、ようやく深く息を吸うことができた。


 鏡の前に立つ。髪は濡れそぼり、化粧はすべて落ちていた。そこにいるのは、完璧な公爵令嬢などではなく、ただの剥き出しの私だ。


 私はクローゼットを開けた。そこには、ユリウスが私に買い与えた、目の眩むような美しい青や白のドレスが、まるで見本市のように整然と並んでいる。宝石箱には、王宮の夜会で身につけたあの巨大なサファイアのネックレスが、怪しい光を放って鎮座していた。


「……全部いらない」


 私はそれらの一切に目をくれることなく、クローゼットの一番奥、棚の隅に押し込まれていた「それ」を引き出した。

 それは数ヶ月前、私がこの屋敷に連れてこられた日に着ていた、平民の服だった。

 下町の仕立て屋で針子をしていた頃、わずかな銀貨を貯めて買った、色褪せた茶色のリネンのワンピース。ところどころに不器用な継ぎ当てがあり、粗末な麻の肌触りはゴワゴワとしていて心地よくはない。

 けれど袖を通した瞬間、不思議なほどに身体が軽く感じられた。


 これだ。これが私だ。みすぼらしいけれど、私自身の足で大地を踏みしめていた頃の、私自身の服。


 最後に私は鏡台に向かい、一枚の高級な便箋を取り出した。ユリウスが私に文字を教えるために用意してくれた、上質な紙。私は万年筆を握り、インクを浸すと、迷いなく文字を走らせた。

 クロードに叩き込まれた、セラフィナの流麗な筆跡ではない。私が仕立て屋の親方に必死に教わった、少し角張った、けれど力強い、私リリアーナの文字で。


『ユリウス様へ。

 何も言わずに去る無礼をお許しください。西館の部屋を見ました。そして、セラフィナ様の本当の想いも知りました。

 私はあなたのことを愛しています。それは決して嘘ではありません。泥水の中で凍えていた私に、温かい場所と食事をくれたあなたを、私は心からお慕いしておりました。

 ですが、私は誰かの身代わりとして生きるほど、自分を安売りするつもりはありません。

 あなたが愛しているのは私ではなく、私の皮を被った、あなたの都合の良い幻想です。私はあなたのお人形にはなれません。

 私は、私として生きるために、この鳥籠を去ります。

 どうか、私を追わないでください。亡き彼女と同じ道を、私に辿らせないでください。──リリアーナ』


 手紙を丁寧に折り畳み、あの巨大なサファイアのネックレスの上にそっと置いた。

 未練はなかった。

 夜の静寂が屋敷を支配する中、私は最低限の着替えだけを小さな布に包み、窓からバルコニーへ出た。幸いにも、私の部屋は一階の庭園に面している。スラムで培った身軽さで、私は手すりを飛び越え、ふわりと芝生の上に降り立った。

 見張りのメイドや騎士たちの死角を縫い、私は一度も振り返ることなく、広大な公爵邸の裏門から、夜の街へと飛び出した。


────


 深夜の王都は、魔法灯の光がうっすらと霧を照らす、冷たくて静かな世界だった。

 薄いリネンのワンピース一枚では夜風が肌を刺したが、私の胸の中は、不思議なほどの高揚感と確かな覚悟で満たされていた。


 目指す場所は、ただ一つ。

 ローゼンベルク侯爵邸。

 あの王宮の夜会で、私を「中身が空っぽの偽物」と烈火のごとく糾弾した、セラフィナの兄・ルーカスの屋敷だ。

 彼のもとへ行くのは、危険な賭けだった。彼は私を激しく嫌悪していたし、公爵家からの逃亡者を匿う義理などどこにもない。最悪の場合、そのままユリウスに突き返されるか、あるいは不審者として捕らえられる可能性もあった。

 けれど、あの夜会で彼が見せた、妹を想う痛切なまでの悲しみ。あれだけが、この嘘にまみれた貴族世界の中で、唯一「本物の感情」に見えたのだ。


 数時間歩き続け、東の空が白み始めた頃、私はようやくローゼンベルク侯爵邸の巨大な鉄製の正門の前にたどり着いた。

 公爵邸にも劣らない豪奢な門の前には、重武装した二人の守衛が鋭い眼光で立っている。

 私は衣服を整え、まっすぐに門へと近づいた。


「止まれ! 何奴だ!」


 案の定、守衛の一人が槍を突き出し、不審者を見る目で私を睨みつけた。無理もない。夜明け前に、薄汚れた平民の服を着た若い女が一人で侯爵邸にやってきたのだ。狂人の類だと思われても仕方がなかった。


「ここは高貴なるローゼンベルク侯爵家のご邸宅だ。平民の小娘がうろつく場所ではない。用があるなら下町の案内所へ行け。さもなくば、治安維持騎士団に通報するぞ」

「お引き取り願いなさい。お前の入っていい場所ではない」


 容赦ない拒絶の言葉。スラムの小娘だった頃の私なら、ここで恐怖に身をすくませ、謝りながら逃げ出していただろう。

 けれど今の私は違う。

 私は深く息を吸い込み、頭を深く覆っていたボロ布のフードを、ゆっくりと後ろへ跳ね上げた。


 朝の薄明かりの中に、私の顔が露わになる。

 月光を溶かしたような銀色の髪がハラリと肩にこぼれ、深いアメジストの瞳が守衛たちを真っ直ぐに射抜いた。


「っ……!? お、お前……! い、いえ、あなたは……!?」


 守衛たちの顔が、一瞬で恐怖と驚愕に染まった。

 彼らがその顔を知らないはずがない。二年前に亡くなった、この屋敷の高貴なる令嬢、セラフィナ。その本人が、幽霊となって目の前に現れたかのような衝撃だったろう。


 私は怯むことなく、背筋をピンと伸ばした。クロードとの地獄のような訓練で身体に染み付いた、完璧な貴族の姿勢。顎を適度に引き、視線は傲然と相手を見下ろすように。

 そして私はこの場にふさわしい、堂々とした、気品に満ちた声で言い放った。


「ローゼンベルク侯爵家当主、ルーカス・フォン・ローゼンベルク閣下にお取次ぎを。私はクロイツェル公爵邸より参りました、リリアーナと申します」

「リ、リリアーナ……!? いや、しかし、そのお姿は……一体……」


 守衛たちの声が激しく狼狽ろうばいする。衣服はまぎれもない底辺の平民のそれなのに、その容姿は亡き令嬢そのものであり、何よりその話し方、佇まい、一分の隙もない圧倒的なオーラは、到底平民の娘が真似できるものではなかった。

 貴族の教養という名の武器が、平民の服を着た私を守る盾になる。皮肉なものだと思いながらも、私は冷徹に彼らを見つめ続けた。


「閣下は、私の顔をご存知のはずです。昨夜の王宮の夜会でお会いしました。私がここへ来た意味を、閣下ならすぐにお分かりになるでしょう。……それとも、あなた方の判断で、公爵家と侯爵家に関わる重大な案件を握り潰すおつもりですか?」


 威圧を込めた私の言葉に、守衛たちは完全にたじろぎ、額に冷や汗をにじませた。


「く、口を慎め、へ、平民……? いや、んん……」

「どうした、朝早くから騒々しい」


 門の内側から、低く響く声がした。

 守衛たちが弾かれたように振り返り、直立不動の姿勢をとる。


「ル、ルーカス閣下!」


 そこには、昨夜の軍服姿とは違い、上質な黒いウールの乗馬コートを羽織ったルーカス侯爵が立っていた。朝の鍛錬に向かう途中だったのだろうか。

 ルーカスは怪訝そうに門へと近づき——そして、門の隙間から私を見た瞬間、その紫色の瞳を大きく見開いた。


「リリアーナか……」


 彼の視線は、私の顔から、身に纏っているみすぼらしい平民の服へと移動した。昨夜のあの完璧な公爵令嬢のレプリカが、今は下町の仕立て屋の小娘のような格好で立っている。その事実が何を意味するのか、彼の明晰な頭脳は一瞬で理解したようだった。


 ルーカスはしばらく黙って私を凝視していたが、やがてふっと、自嘲気味な笑みを漏らした。


「……ハッ、まさか本当に鳥籠を破って出てくるとはな。……お前たち、門を開けろ」

「閣下、しかしこの者は擬態した魔女やもしれません……」

「私の客だ。通せ」


 絶対的な命令に、守衛たちは慌てて重い鉄門を開放した。

 ルーカスは私に背を向け、邸内へと歩き出す。


「ついて来い」


 私は小さく頷き、彼の後ろ姿を追って、ローゼンベルク侯爵邸の敷地へと足を踏み入れた。


────


 連れて行かれたのは、応接室ではなく、邸宅の裏手に広がる広大な庭園だった。

 中央には、大理石で造られた美しい噴水があり、朝の光を浴びて、澄んだ水しぶきがキラキラと輝いている。周囲には、セラフィナが嫌ったという手入れの行き届いた白薔薇ではなく、野生味を残した色鮮やかな初夏の花々が咲き誇っていた。


 ルーカスは噴水の縁に歩み寄り、立ち止まった。水の流れる心地よい音が、静かな庭園に響き渡る。

 私は彼から数歩離れた場所に立ち、静かに次の言葉を待った。


「……アイツは、この庭が嫌いだった」


 ルーカスは噴水の水面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。その声には、昨夜の夜会で見せたような刺々しさはなく、どこか遠い日を懐かしむような、深い哀愁が満ちていた。


「ローゼンベルクの娘として、完璧であるよう強いられ、四角四面に整えられたこの屋敷のすべてを、アイツは鬱陶しがっていたよ。……私に対してもそうだ。顔を合わせれば、いつも突っかかってきた。あいつの口の悪さは、母親譲りだったからな」


 ルーカスはフッと小さく笑った。けれど、その笑顔はすぐに悲痛なものへと歪んでいく。


「仲が悪かった。まともに、優しい言葉一つかけてやった記憶がない。アイツがユリウスとの婚約に息を詰まらせ、徐々に笑顔を失っていくのを知っていながら……私は、ただの我が儘だと思って、まともに話を聞いてやらなかった。……そして、気づいた時には、アイツは冷たくなっていた」


大きな手が、痛々しいほどにきつく握りしめられていく。


「流行り病だと、世間には公表した。ユリウスもそう信じているし、そう信じたがっている。だが……違う。アイツは、自分で薬を煽ったんだ。私たちが押し付けた『完璧な公爵夫人』という未来から、命を懸けて逃げ出した。……私は、あいつの兄であり、家族でありながら、何一つ救ってやれなかった。それを……ずっと後悔している。どれだけ勲章を貰おうが、領地を広げようが、死んだ妹一人救えなかった無能な男だよ。私は。」


 噴水の水音が、彼の告白を静かに受け止めていく。

 私は何も言えなかった。家族としてセラフィナを愛し、愛するがゆえにすれ違い、永遠の悔恨を抱えて生きる兄の姿が、あまりにも切なかったから。


 ルーカスはゆっくりと振り返り、その紫色の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。


「勘違いするなよ、リリアーナ。私は、お前の味方になるつもりはない。昨夜の、お前のあの薄気味悪い演技——死んだ妹を侮辱するような真似をしたお前を、私は今でも許してはいない」


 彼の言葉は冷酷だったが、私は静かにそれを受け止めた。「当然です」と。


「だが……」

 ルーカスは言葉を続け、私の粗末な平民の服に視線を落とした。

「お前がその服を着て、あの屋敷を飛び出してきたということは、お前が『人形』になることを拒絶したということだ。……妹と同じように、ユリウスの狂気に押し潰されそうになって、逃げてきたんだろう」


「……はい」


「だったら、手助けくらいはしてやる。妹と同じ苦しみを、妹に似た顔を持つお前に、もう一度味わって欲しくはないからな。……これはお前の為じゃない。ただの私の、自己満足だ」


 ルーカスはコートのポケットから、一枚の封書を取り出した。


「これを使え。我が家の息のかかった商船の乗船券と、身分を偽装するための書類だ。北の果ての辺境領へ行く船が出る。こっちでお前を『死んだ』手筈にしておく。新しい名前と身分を用意してやる。ユリウスの力が及ばない異国へ逃げ延び、そこでただの平民として静かに、そして『自由』に暮らせ」


 死の偽装。

 それは、ユリウスという強大な権力者から逃れるための、最も確実で、最も安全な方法だった。一度死人になってしまえば、ユリウスがいくら血眼になって探そうとも、追っ手が私を見つけることは不可能に近い。


 けれど。

 私は差し出されたその封書を見つめながら、ゆっくりと首を横に振った。


「……お断りします、ルーカス閣下」

「何だと? 断る? お前、自分が何を言っているのか分かっているのか? ユリウスの執着を甘く見るな。あいつは、お前が消えたことを知れば、狂わんばかりに王都中を捜索させるずだ。例え他国だろうとな」


 ルーカスの声に、鋭い焦燥が混じる。

 私は彼の紫色の瞳を真っ直ぐに見つめ、一歩、前に踏み出した。


「分かっています。ですが、私がここで『死んだこと』にして逃げ出せば、それで本当に終わりですか?」

「どういう意味だ?」

「私が死ねば、ユリウス様はまた、激しい喪失の底に突き落とされます。そして……彼のあの狂気が治らない限り、彼はまた探すはずです。この広い世界のどこかにいる、セラフィナ様に似た『次の身代わり』を。私の代わりに、またどこかの不幸な少女が捕らえられ、あの鳥籠に閉じ込められるかもしれない」


 ルーカスは息を呑み、言葉を失った。


「それに……」

 私は胸の手帳にそっと手を当てた。

「私は、ユリウス様を恨んではいません。彼もまた、愛という名の病に侵され、苦しんでいる一人の哀れな人なのです。……だから、私はただ逃げるのではない。彼に、突きつけたいのです」


「……何を?」


「過去の亡霊ではなく、今そこにいる『私』を。彼が本当に求めているのは、すでに失われたセラフィナ様の幻影なのか。それとも、数ヶ月の間、確かに同じ時間を過ごし、彼を愛した『リリアーナ』という不完全な私という人間なのか。……それを、彼自身の目で見極めさせたいのです」


 私の言葉には、貴族の令嬢のような優雅さはなかったかもしれない。けれど、スラムの底から這い上がってきた者特有の、泥臭くも強固な「意志」が宿っていた。

 私はユリウスを愛している。だからこそ、彼の狂気ごと、その愛の真実をこの目で見極めたい。私をただの器としてではなく、一人の人間として彼が愛してくれる可能性が、万に一つでもあるのなら——。


 ルーカスは、呆然としたように私を見つめていた。やがて、彼は頭を抱えるようにして、深いため息をついた。


「……狂っている。お前も、ユリウスも、どいつもこいつも狂っているよ。まったくこの世界はイカれた宗教と狂人ばかりだ」

「ンフフ、よく言われますわ、閣下」


 私が少し悪戯っぽく微笑むと、ルーカスは観念したように肩を落とし、封書をポケットに仕舞い込んだ。


「いいだろう。お前がそこまでの覚悟を持っているなら、私のやり方を変える。……死の偽装はなしだ。だが、あいつの目が届かない場所に、お前を一時的に隠してやる。ユリウスが自分の正気を取り戻すか、あるいは完全に破滅するか……それを特等席で見極めるがいい」


「……ありがとうございます、ルーカス様」


 私は初めて彼に心からの感謝を込めて、一礼した。

 噴水の水音が、私たちの新しい契約を祝うように、高く、激しく響き渡っていた。


────


 その頃、クロイツェル公爵邸は、文字通り「地獄」と化していた。


「——いない? いないとはどういうことだ!」


 主寝室の重厚な絨毯の上に、ユリウスは立ち尽くしていた。

 彼の衣服は乱れ、昨夜の夜会の正装のまま、一睡もしていない彼の顔は、鬼気迫るほどの蒼白さに染まっている。


 彼の目の前には、頭を床に擦り付け、恐怖でガタガタと震えているマリアたちメイドと、青ざめた顔で直立しているクロードの姿があった。


「申し訳ございません、旦那様……。夜明け前、リリアーナ様の御様子を伺いに参りましたところ、すでに御部屋は空で……バルコニーの窓が開いておりました……」


 マリアの声は震えていた。

 ユリウスの視線が、ベッドの傍らにある鏡台へと向かう。

 そこには彼が贈った最高級のサファイアのネックレスが、冷たく輝いていた。そしてその上には、一枚の便箋が置かれている。


 ユリウスは、まるで自分の命の灯火を奪われるかのような恐怖に駆られながら、その手紙をひったくるようにして開いた。

 そこに書かれていたのは、彼がよく知るセラフィナの文字ではなかった。

 少し不器用で、けれど力強い、リリアーナの文字。


『私は誰かの身代わりとして生きるほど、自分を安売りするつもりはありません。……私は、私として生きるために、この鳥籠を去ります』


「……あぁ。……あぁ……なんてことだ……」


 ユリウスの口から、獣のような、あるいは壊れた玩具のような、奇妙な割れた声が漏れた。

 手紙を持つ彼の長い指が、激しく、激しく震える。


「なぜだ……なぜ逃げたんだ、リリアーナ……! 私は君をあんなに愛していたのに! すべてを与えたはずだ! なぜ私を置いていく!」


 彼は狂ったように叫び、鏡台の上の化粧品や宝石箱を乱暴に床へと叩きつけた。ガシャーンと、高価な硝子やクリスタルが砕け散る。

 その凄まじい怒りと狂気に、メイドたちは悲鳴を上げて縮こまった。


「クロード!! 今すぐ私兵達を動かせ! 王都の全域を調査しろ! 下町、スラム、どんな情報でも構わん! 金に糸目をつけず、すべての場所をひっくり返してでも彼女を探し出せ! 見つけたら、どんな手段を使ってでも、ここへ連れ戻すんだ!!」


「……旦那様」

 クロードは、いつもと変わらぬ冷静な声で、けれどその瞳に深い憂慮を湛えて口を開いた。

「すでに騎士団は動かしております。ですが……リリアーナ様は、ご自身の意志で、すべての衣服や宝石を置いていかれました。身に纏っていかれたのは、最初に出会った時の、あの平民の服だけです」


「平民の服……?」


「ええ。彼女は……セラフィナ様の模造品であることを、完全に拒絶されたのです」


 その言葉が、ユリウスの脳内に致命的な一撃を与えた。

 衣服を置いていった? 宝石も? あの、自分がこだわって作らせた青いドレスも、何もかもを?


 ユリウスは、ふらふらとした足取りで、彼女が使っていたクローゼットへと歩み寄った。扉を開けると、そこには彼が愛した「青」と「白」の世界が、そっくりそのまま残されている。

 そこにリリアーナの気配は、何一つ残っていなかった。


 彼はそのまま、彼女が昨夜まで眠っていたベッドへと崩れ落ちた。

 シーツに顔を埋め、必死にその匂いを吸い込む。


「…………」


 ユリウスの身体が、ピキリと硬直した。

 シーツから漂ってきたのは、彼が毎日のように調合させて彼女に振りかけさせていた、あの重たくて甘いミュゲの香りではなかった。

 そこにあったのは、ただの、清潔な湯の匂い。

 そして……どこか素朴な、下町の仕立て屋で嗅いだような、布と日向の香り。


 その香りを感じた瞬間、ユリウスの脳裏に、数々の光景がフラッシュバックした。

 それは、西館に飾られたセラフィナの思い出ではない。

 雨の日、泥だらけになって泣いていた彼女を抱きしめた時の、あの折れそうなほどに細い肩の感触。

 初めて美味しいスープを飲んだ時、目をキラキラと輝かせて「美味しいです!」と破顔した、あの素朴で愛らしい笑顔。

 マナーが上手くいかず、指先を真っ赤にしながらも、「あなたのために頑張ります」と健気に微笑んだ、あのいじらしい姿。


 ユリウスの胸の奥で、何かが、音を立てて粉々に砕け散った。


(私は……私は、何をしていたんだ……?)


 彼が思い出したのは、死んだ婚約者との過去ではなかった。

 つい数日前まで、この部屋で、自分の隣で、確かに生きて、笑い、泣いていた、一人の女性の姿。

 リリアーナ。

 セラフィナの身代わりとして連れてきたはずの女性。


 気づけば、ユリウスの目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、シーツを黒く染めていた。


「リリアーナ……リリアーナ、どこへ行ったんだ……頼むから、私を置いていかないでくれ……」


 彼はシーツをきつく掻き抱き、子供のように声を上げて泣いた。

 失って初めて、彼は自らの過ちの深さに気づいたのだ。

 彼が今、狂うほどに求めているのは、過去の亡霊などではない。

 自分を「ユリウス」と呼び、不器用ながらも真っ直ぐな愛を向けてくれていた、リリアーナという名の、ただ一人の女性の笑顔だったのだということに。


「リリアーナ……リリアーナァァッ!!」


 主を失った鳥籠の中で、若き公爵の絶望の叫びが、明けたばかりの朝の空へと虚しく響き渡っていた。

 本当の恋の自覚。それは、あまりにも遅すぎた、彼にとっての終わりのない地獄の始まりだった。

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