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【連載完結】身代わりから始まる、狂おしいほどの溺愛が私を待っていました。  作者: 逆立ちハムスター


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4/7

血に濡れていた、硝子の靴

 ワルツの最後の和音が天井に吸い込まれるように消えると、一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が会場を包み込んだ。

 それは、賞賛というよりも、圧倒的な「何か」を見せつけられた貴族たちの、本能的な反応だったのかもしれない。

 死んだはずの完璧な公爵令嬢が、全く別の名前を名乗り、以前と寸分違わぬ——いや、もしかすると以前以上に洗練された美しさを纏って蘇ったのだから。


「……よくやった。完璧だ、私のリリアーナ」


 ユリウスは荒い息を吐きながら、私の耳元で熱を帯びた声で囁いた。私を抱き寄せる彼の腕には、狂気じみた独占欲が込められている。

 私は、彼の腕の中で小さく息を整えながら、クロードに仕込まれた通りの「控えめだが誇り高い淑女の笑み」を浮かべ、周囲の拍手に応えた。

 顔の筋肉が引き攣りそうだ。心臓は、悲鳴を上げている。

 褒められているのは、私ではない。ユリウスの記憶の中にある彼女のステップを、見事に再現してみせた『私の肉体』なのだ。


「公爵閣下。素晴らしいダンスでした」


 次々と貴族たちが挨拶に訪れる。彼らの瞳の奥には、好奇心と探るような色が隠しきれずに浮かんでいた。

 私はユリウスの半歩後ろに控え、彼が話を振った時だけ、完璧なタイミングで、完璧な内容の相槌を打った。セラフィナが好んだ言葉遣い、セラフィナが好んだ間の取り方。私の頭の中に叩き込まれた膨大なデータが、自動的に最適解を弾き出していく。


「リリアーナ様は、どちらの御出身で?」

「恥ずかしながら、田舎のしがない男爵家の遠縁に過ぎませんわ。ユリウス様に見出されなければ、今頃は土いじりでもしていたことでしょう」

「ほう。それにしても、その立ち振る舞い、とても田舎育ちとは思えませんな」

「すべては、ユリウス様の愛と、クロード様の厳しいご指導の賜物ですわ。私はただ、殿方の期待に応えたいと願うだけの、愚かな女ですから」


 私が少し目を伏せて微笑むと、意地悪な質問を投げかけてきた夫人たちも、毒気を抜かれたように扇子で口元を隠した。

 スラムで培った、相手の顔色を読み、生きるためにへりくだる処世術。それが今、この華やかな舞踏会で、皮肉にも「控えめな淑女の演技」として完璧に機能していた。

 ユリウスは満足げに私の腰を撫でた。


 しかし、その完璧なかりそめの平和は、一人の男の登場によって突如として破られた。


「——ずいぶんと悪趣味な茶番を楽しんでいるようだな、ユリウス」


 冷や水を浴びせるような、氷のように冷たく、そして酷くドスを効かせた声。

 その声が響いた瞬間、周囲にいた貴族たちがサッと血の気を引き、モーゼの十戒のように道を空けた。

 現れたのは、一人の長身の青年だった。

 身に纏うのは、王族に次ぐ権威を示す深紅の軍服。胸元には数多の勲章が輝き、腰には儀礼用のサーベルを佩いている。

 だが私の目を釘付けにしたのは、彼の容姿だった。

 月光を溶かしたような、美しい銀色の髪。

 深いアメジストのような、紫色の瞳。

 ——それは私と、そして『彼女』と全く同じ色彩だった。


 ユリウスの顔からスッと表情が消え失せた。


「……ルーカス殿。お久しぶりです」

「殿だと? ふざけるな」


 ルーカスと呼ばれた青年——ルーカス・フォン・ローゼンベルク侯爵は、ギリッと歯を食いしばり、凄まじい殺気を放ちながら私たちに歩み寄ってきた。

 ローゼンベルク。

 その家名に私の心臓が凍りついた。

 セラフィナ・フォン・ローゼンベルク。彼女の兄だ。


 ルーカス侯爵の紫色の瞳が、ユリウスを通り越し、私を射抜いた。

 その瞬間、彼の顔が苦痛と、怒りと、そして耐え難いほどの悲哀に歪むのを、私ははっきりと見た。


「……狂っているとは思っていたが、ここまでとはな。お前は、正気か? ユリウス」

「何のことでしょうか。私は今夜、愛する婚約者を皆様に披露するためにここへ来た。それ以上でも、それ以下でもありません」

「愛する婚約者、だと?」


 ルーカス侯爵は、私の目の前まで迫ると、その大きな手で乱暴に私の顎を掴み、上を向かせた。

 周囲から悲鳴のような息を呑む音が漏れる。ユリウスの青い瞳に、剣呑な光が宿ったのがわかった。


「触れるな」

「黙れッ!!」


 ルーカス侯爵の怒鳴り声が、シャンデリアを揺らすほど響き渡った。

 彼は私の顎を掴んだまま、私を穴の開くほど見つめる。


「同じ髪。同じ瞳。骨格まで気味が悪いほどそっくりだ。……どこで見つけてきた、こんな人形を。いや、見つけてきただけじゃない。歩き方から視線の流し方まで、すべてアイツの真似をさせているのだろう? お前が『リリアーナ』と呼ぶこの女の皮を被った怪物は、一体誰のつもりだ!?」

「ルーカス侯爵。それ以上彼女を侮辱するなら、たとえあなたであっても容赦はしない」


 ユリウスの低い声は、地獄の底から響くような恐ろしいものだった。

 一触即発の空気。

 このままでは、大勢の貴族たちの前で、公爵と侯爵が剣を抜きかねない。

 どうすればいい?

 クロードの教育のカリキュラムに、こんな場面はなかった。

 しかし、私は『完璧な模造品』でなければならない。

 私は、痛む顎を引いて、ルーカス侯爵の紫色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。そして、静かに、けれど毅然とした声で口を開いた。


「ルーカス侯爵様。初めまして、リリアーナと申します。ユリウス様を心配されるお兄様のお気持ちは痛いほどわかります。ですが、どうか彼を責めないでくださいませ」

「……お前、今、なんと言った?」

「私は私です。誰かの代わりになることなどできません。けれど、もし私のこの容姿が、ユリウス様の癒えない傷を少しでも塞ぐ包帯になれるのなら、私は喜んでこの身を捧げる覚悟です」


 それは美しい自己犠牲を装った、最低の嘘だった。

 私が言い放った言葉に、会場中が静まり返った。健気で、愛に殉じる悲劇のヒロイン。私が演じたその姿は、貴族たちの同情を引くには十分だった。

 ユリウスもまた、ハッとしたように私を見つめ、その瞳に狂おしいほどの愛しさを滲ませた。


 しかし。

 ルーカス侯爵だけは違った。

 私の言葉を聞いた瞬間、彼の顔からスッと怒りが消え、代わりに、得体の知れないものを見るような底知れぬ『嫌悪』が浮かび上がったのだ。


「……あぁ、そうか。わかったぞ」


 ルーカス侯爵は、私の顎から手を離し、汚いものでも触ったかのように手袋を脱ぎ捨てた。


「お前は全然似ていない」

「…………」

「外見はそっくりだ。だが、中身は全くの別物だ。セラフィナは、そんな薄気味悪い、人形のような笑い方はしない。あいつはもっと我が儘で、感情的で、私がからかえばすぐに顔を真っ赤にして怒った。ユリウスが無理をすれば、大声で泣きながらアイツを引っ叩いた。……あいつは、生きている人間だった」


 ルーカス侯爵の言葉が、私の心臓に鋭い刃となって突き刺さる。


「お前が演じているのは、ユリウスの頭の中にだけ存在する『自分にとって都合の良い、理想化されたセラフィナ』だ。完璧で、従順で、ただ微笑んで彼を許容するだけの、気色の悪い聖女の幻影だ」

「…………っ」


 息が止まった。

 目の前が真っ白になる。

 ルーカス侯爵は、ユリウスを憐れむように一瞥した。


「狂っているよ、ユリウス。お前が愛していたのは、セラフィナという人間の本質じゃない。自分を愛してくれる『都合の良い人形』だったんだ。だから、こんな空っぽの器に昔の服を着せて、満足できるんだろう」


 その言葉は、ユリウスへの非難であると同時に、私という存在の根底を完全に破壊するものだった。

 クロードに血を吐くような思いで叩き込まれた、完璧なマナー。完璧な教養。完璧な微笑み。

 それらはすべて、セラフィナ自身のものではなかったのだ。

 それは、ユリウスとクロードが作り上げた、「彼らにとって理想の女性像」

 本物のセラフィナは、もっと人間臭く、感情豊かで、時には怒り、泣き、そして笑う女性だったのだ。


 私はセラフィナの身代わりにすらなれていなかった。

 『ユリウスの妄想』の身代わりにさせられていただけだったのだ。


「……黙れッ!!」


 突如、ユリウスが獣のような咆哮を上げ、ルーカス侯爵の胸ぐらを掴んだ。


「貴様に何がわかる!! セラフィナは私のすべてだ! 彼女は私を愛していた! そしてリリアーナも私を愛している! 私たちは何も間違っていない!!」

「ユリウス様、おやめください!!」


 これ以上の騒ぎは致命的だ。

 私は無我夢中でユリウスの腕にしがみつき、彼を引き剥がそうとした。

 私の懇願の声に、ユリウスはハッと我に返り、荒い息を吐きながらルーカス侯爵から手を離した。


「……失礼した。今日は少し、酒が回ったようだ。帰るぞ、リリアーナ」


 ユリウスは私の手を乱暴に掴むと、周囲の貴族たちが止めるのも聞かず、嵐のように会場から立ち去った。

 振り返ると、ルーカス侯爵が、酷く悲しげな瞳で私を見送っていた。その瞳の奥には、「お前もまた、狂気に巻き込まれた被害者だ」という憐憫の情が浮かんでいた。

 その憐れみが、何よりも私を惨めにさせた。


────


 帰りの馬車の中は死んだような静寂に包まれていた。

 ユリウスは向かいの席に座り、両手で顔を覆ったまま、一言も発しない。

 私は窓の外を流れる暗い夜の景色をぼんやりと見つめていた。

 顎には、ルーカス侯爵に掴まれた赤黒い痣ができているだろう。けれど、そんな肉体の痛みなど、どうでもよかった。


(私は、二重の偽物だった)


 本物のセラフィナの代わりですらない。

 ユリウスの歪んだ愛を満たすために作られた、偶像のレプリカ。

 スラムで泥にまみれていた『リリアーナ』としての私は、もうこの世界のどこにも存在しない。では、今ここに座って呼吸をしているこの生き物は、一体何者なのだろうか。


「……すまなかった」


 唐突にユリウスが掠れた声で沈黙を破った。

 彼が顔を上げると、その青い瞳には、ひどく怯えたような、迷子のような色が浮かんでいた。


「痛かっただろう。ルーカスの奴め……私の大切な君に、あんな真似を……」


 ユリウスは私の隣に移動し、私を壊れ物のようにそっと抱きしめた。

 彼の大きな手が、私の背中を震えながら撫でる。


「あいつの言うことなど、気にする必要はない。あいつは嫉妬しているだけだ。セラフィナを失った悲しみから逃れられず、私たちが幸せにしているのが許せないんだ。そうだ、そうに決まっている」


 早口で自分自身に言い聞かせるように呟くユリウス。

 その言葉を聞いて、私は確信した。

 ああ、この人は、本当に壊れているのだ、と。


 真実を見ようとしない。見れば自分が壊れてしまうから、必死に見えない壁を作って、その中に私という都合の良い人形を閉じ込めている。

 彼は、セラフィナを愛していたのではない。

 『セラフィナを愛し、彼女から完璧に愛される自分』を愛していただけなのだ。


「……愛しているよ。私の、完璧なセラフィナ」


 ユリウスの口から、無意識にこぼれ落ちたその名前。

 ついに起きている彼までもが、私をその名で呼んでしまった。

 言い間違えたことにすら気づいていない彼は、私の唇に熱い口付けを落とす。


「君は、私を置いていかないよね? ずっと、私のそばで微笑んでいてくれるよね?」

「……はい、ユリウス様」


 私は感情の抜け落ちた声で答えた。

 もう涙すら出なかった。

 私の心は、完全に砂となって崩れ落ちた。

 彼は私を見ていないどころか、彼が愛したセラフィナすら見ていなかった。彼はただ、自分の狂気を正当化するための鏡を探していただけ。

 その鏡に、たまたま私が選ばれた。それだけのこと。


「私はずっと、あなたのそばにおります。あなたが望むままの、姿で」


 私は彼を抱きしめ返し、その背中に冷たい手で触れた。

 前世の私が死んだあの雨の日のように、私の心の中では、冷たくて暗い雨が降り続いていた。


────


 屋敷に戻ると、ユリウスはひどく疲労した様子で、そのまま自分の寝室へと向かった。

 私はマリアに着替えを手伝ってもらい、化粧を落とすと、一人きりの自室に取り残された。

 時計の針は、深夜の二時を指している。

 眠気など、全くなかった。


 私は薄暗い部屋の中で立ち上がった。

 足は自然と、あの場所へと向かっていた。


 屋敷の西館。

 禁断のアトリエ。


 音を立てないように廊下を進み、黒檀の扉を開ける。

 むせ返るようなミュゲの香り。そして、月光に照らし出された無数の『セラフィナ』の肖像画。

 私は、部屋の中央にある巨大な肖像画の前に立った。

 気高く、完璧な微笑みを浮かべる美しい女性。

 今の私ならわかる。これは、本物の彼女の笑顔ではない。ユリウスが記憶の中で作り変えた、都合の良い聖女の顔だ。


 私は部屋の中を調べ始めた。

 もし、ルーカス侯爵の言葉が真実なら、本物のセラフィナが生きた証が、どこかに残されているはずだ。

 クロードやユリウスが目を逸らし、隠蔽した、彼女の『本当の姿』が。


 イーゼルの裏、棚の引き出し、カンバスの束の間。

 狂ったように部屋を漁っていると、部屋の隅にある古いアンティークのチェストの裏側に、小さな隙間があるのを見つけた。

 手を差し込むと、革張りの小さな手帳が埃に塗れて落ちていた。

 表紙には、銀色の箔押しで『S.R』と刻まれている。


 震える手で、その手帳を開いた。

 月明かりを頼りに、ページをめくる。そこには、女性らしいがどこか勢いのある、癖の強い文字がびっしりと書き込まれていた。

 クロードが私に教えた、「流れるように美しい完璧な筆跡」とは程遠い、感情の乗った文字。


『〇月×日

 またユリウスが青いドレスを贈ってきた。もう何着目よ! 私は赤や黄色の明るい色が好きなのに。彼に文句を言ったら、ひどく傷ついた顔をして黙り込んでしまった。ああいう顔をされると、私が悪者みたいじゃない。息が詰まる』


『△月〇日

 クロードと大喧嘩をした。私が剣術の稽古に出るのを、ユリウスが嫌がるからだ。公爵令嬢たるもの、日焼けなど言語道断だとクロードが何度も小言を言う。うるさい、うるさい! 私はお人形じゃない。自分の足で走って、汗を流したいのに』


『×月△日

 ユリウスの愛が、恐ろしい。

 彼は私を愛しているというより、私という存在を自分の一部にしてしまいたいようだ。私が他の誰かと笑い合うだけで、彼の目は暗く濁る。

 このまま彼と結婚したら、私はどうなってしまうのだろう。

 美しい鳥籠の中で、羽根をもがれて、彼好みの歌しか歌えない鳥になってしまうのだろうか。

 ……逃げたい。時々、狂おしいほどにそう思う。』


 最後の日記の日付は、彼女が死ぬ数週間前のものだった。

 手帳からバサリと、一枚の紙片が落ちた。

 それは押し花だった。

 青く染められた薔薇の押し花。しかし、その花弁は乱暴に引き千切られ、怒りに任せて踏みつけられたような無惨な跡が残っていた。


「……あぁ」


 私は手帳を抱きしめたまま、その場に崩れ落ちた。

 本物のセラフィナは苦しんでいたのだ。

 ユリウスの歪んだ、重すぎる愛に。

 彼女は完璧な淑女などではなかった。自由を愛し、自分の意志を持ち、そして、彼から逃げ出したいとすら願っていた。


 病死とクロードは言った。

 本当にそうなのだろうか?

 彼女は、自らその命を絶ったのではないか。この息の詰まる鳥籠から、永遠に逃げ出すために。


 私は今、彼女が命を懸けて逃げ出したその鳥籠に、自ら喜んで入り込み、彼女を苦しめた「理想の像」を自ら被ろうとしているのだ。

 なんて滑稽で、なんて愚かなのだろう。


 私は涙も出ないほどの虚無感の中で、月光に照らされた完璧な肖像画を見上げた。


「可哀想に……」


 その言葉が、誰に向けられたものなのか、私自身にもわからなかった。

 死んでなお、理想の姿に歪められ続けるセラフィナへか。

 幻影を愛し、狂気の中で生きるユリウスへか。

 それとも、すべてを知りながら、それでもこの鳥籠の中でしか生きられない、空っぽの私自身へか。


 西館の暗闇の中で、重たく甘いミュゲの香りが、死の匂いのように私の全身にまとわりついていた。

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